「観経」のオモテとウラ(隠顕)


 「観無量寿経」は”方便の経”と言われていて、表向きの意味と、裏面にひそかに隠された真の意味がある、いってみれば「二重構造」を持つお経です。

「観経」の表向きの意味のことを「顕説(けんぜつ)」と言いますが、それはどんなものかというと、「定善・散善」と言われる自分の力でさまざまな修行を修め、善根を積み、阿弥陀さまのお浄土に生まれようとする、”自力の行”を説明した内容となっています。


一方、「観経」の裏の意味、根底に流れる真の意味とは何かというと、

「阿弥陀さまの真の救いのはたらきである”南無阿弥陀佛”のお念仏こそが、お浄土に生まれるただ一つの方法である。」

ということが示されています。


このことを親鸞聖人は、著書「教行信証」に示されています。


 問ふ。『大本』(大経)の三心と『観経』の三心と一異いかんぞや。答ふ。釈家(善導)の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利格別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土(ごんぼじょうど)の善根なり。これはこの経の意なり。すなはちこれ顕の義なり。彰といふは、如来の弘願を彰し、利他通入の一心を演暢す。達多・闍世の悪逆によりて、釈迦微笑の素懐を彰す。韋提別選の正意によりて、弥陀大悲の本願を開闡す。これすなはちこの経の隠彰の義なり。 (『教行信証化身土文類 註釈版381p)

(現代語訳)

 『大無量寿経』の説かれる三心と、『観無量寿経』に説かれる三心の違いとは何でありましょう。それは、『無量寿仏観経』を解釈された善導大師のご意見を参考にさせて頂くと、表向きの意味と、裏面にある真の意味とがあります。

表向きの意味とはどんなものかというと、定散諸善のさまざまな自力の行で善根を積むことを説き、お浄土に生まれる3種類のともがらと、その心を示します。 しかし、ここで説かれるさまざまな”行”ではお浄土に生まれることはできません。なぜならその行を行う心は”自力の心”であるからです。他力の信心ではありません。

これらの行は、自力で善根を積むことでお浄土へ生まれようとする”聖道門”の人に阿弥陀さまのお浄土を願い慕わせるための”善”(お手立て)に過ぎないのです。

これが表向きの意味です。

では裏面に隠れた真の意味というのはなんなのかというと、阿弥陀さまの救いのはたらき、つまり第十八願の誓いをあらわしていて、人々をこの阿弥陀さまの救いのはたらきに通入させることを広く説かれています。

ダイバダッタの教団反逆・アジャセの起こした父王監禁事件がきっかけとなり、お釈迦さまは自分がこの世に出た本当の理由=阿弥陀如来さまの救いの法を説く時がついに来たのだと、微笑まれました。

またこの事件で息子アジャセに幽閉された母・韋提希は、これがきっかけとなりお釈迦さまの説法を真剣に求め、阿弥陀さまのお浄土に自分も生まれたいと願うことで、ついに阿弥陀さまの大慈悲のご本願が説かれたのです。

これこそが、この「観経」の裏面の意味、根底に流れる真の意味です。

               (訳終わり)



 ・「観経」はお念仏を伝えたかったお経


「観無量寿経」には、さまざまな自力の行から、お念仏まで説かれます。

しかし、この「観経」の最後、付属の文(註釈版117p)に、


 仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。


(現代語訳)

 お釈迦様が弟子のアナンに言います。「阿弥陀仏の名号を常に心にとどめよ。阿弥陀仏の名を信じ、称えよ。」


と示されます。 

お浄土に生まれるためのさまざまな行を説いた最後に、あえて「阿弥陀仏の名号を常に心にとどめよ」とお念仏だけを指して言われるのは、紛れもなく、この”お念仏”こそが、この「観経」の真の内容だったということです。

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