阿弥陀さまがすでに仏になっているという矛盾について



 阿弥陀さまの救いの願いを誓った「四十八願」には、すべてに共通して、願いの最後に「正覚を取らじ」、すなわち、「この願いが達成されなければ、私は仏のさとりを開きません」と誓われています。

しかし、このことについて、

「現に今、さとりなんか開くこともできずに、この迷いの世に生きてる自分が存在しているのに、なぜ阿弥陀さまは仏となっているのか?迷い苦しんでいるものを浄土に救い取らなければ、さとりはひらきませんと誓ったんじゃなかったのか!?」

と、思って気になっている方が意外とたくさんいるのではないかと思います。



 ・法蔵菩薩と地蔵菩薩の違い


 法蔵菩薩が「すべてのものが仏と成らなければ、私もさとりはひらきません」と誓ったことはご存知でしょうが、実は、地蔵菩薩も同じことを誓っているのです。そうです、よく道路沿いにいらっしゃるお地蔵さんです。

しかし、法蔵菩薩が地蔵菩薩と違うところは、

「すべてのものが仏になるのを待っていては、いつまで経っても自分は仏に成れない!」と考えたのです。

当たり前ですよね。一人だけでも仏にすることは大変なことなのに、すべてのものが仏になるのを待っているなんて、できません。


この点、地蔵菩薩は、このすべてのものと縁を結ぶために、あらゆる場所に立っているのですが、私たちが仏になるのを待っておられるので、仏にはならないのです。


そこで法蔵菩薩は考えたのです。

どんなものでも仏となれる「タネ」である”因”を、完璧に作り上げれば、迷えるものたちが仏になるのを待つ必要がなくなるはず。それさえ届けば仏となることができるという状態にさえできれば良いのだ!


そうして仕上げられたのが「南無阿弥陀佛」のお名号なのです。

そのお念仏の中に、私の代わりに法蔵菩薩が行った修行と、必ず救うという願いが込められているので、お浄土に参ることができ、私たちの持っている悪業も、転じ変えられて、さとりをひらくことができるのです。


その「南無阿弥陀佛」という、お浄土でさとりをひらく「タネ」を完成させたので、今、阿弥陀さまは仏のさとりを得られているのです。

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