弘願(第十八願)

 

 ・弘願(ぐがん)とは


 「要門」、「真門」で説明したように、自分で、修行や善い行いを積み重ねること(自力)は、人間である以上、結局のところ、やればやるほど疑問や不安が生まれる道です。親鸞聖人は比叡山での20年間の修行時代に、ありとあらゆる聖道門の行を行い、自力のお念仏を称えられましたが、浄土に生まれることが不可能であることを知らされ、最終的にこの「弘願」、絶対他力の浄土門へ転入されました。

 では弘願とは何かというと、阿弥陀如来の四十八願の中心、「第十八願」のことであり、「本願(ほんがん)」とも言われます。阿弥陀さまが「必ずあなたを救う」というこの本願では、自分で積み重ねる修行や自力の念仏で救われようとするのではなく、そういった自分の力(はからい)に頼ることから離れて、”救い”はすべて阿弥陀さまからいただくものだということを言われているのです。「お浄土への往生」という救いを自分から掴みにかかるのではなく、救いはすべて阿弥陀さまから与えられているものであって、”私”はそれを受け取るだけで救われるのです。

 ちょうどこれは、水面にうつる月に例えられます。静かに揺らぐ水面に満月がうつっています。しかし、水面にうつる月に手が届くからといってそれに触れても、当然、掴むことはできず、水面が波立つだけです。

この時、本物の月が阿弥陀さまの救いの光(はたらき)であり、水面が私たちの心です。うつる月は阿弥陀さまの救いの光ですが、自分で掴もうとする(自力で救いを求める)と、水面はバシャッと波立つ(心が定まらない、煩悩がうごめく)のです。

簡単にまとめると、お念仏を自分の力と思って称えると自力のお念仏になります。しかし、阿弥陀さまから届いたお念仏をキャッチするような、「はい!」という返事のような心持ちでするお念仏は、他力のお念仏となります。

だから、「南無阿弥陀佛」のお念仏は、受け取るだけでいいのです。むしろ”受け取るだけ”でなくてはいけません。

ここが一般的な宗教と浄土真宗の違うところです。絶対者に対して崇拝するのではなく、阿弥陀さまの方から救いのはたらきがすでに届いていたのだと知らされるのが、浄土真宗です。


 親鸞聖人は、要門、真門をご自身で実体験され、この迷いの世界を離れる手段はなかったと確信し、そんな私を「必ず救う」と誓われた阿弥陀さまのはたらきの確かさ、温かさに、辿りつかれたのです。


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