真門(第二十願)


 ・真門とは何か


要門の次は真門(しんもん)の解説に入ります。

 要門と同じで、門とは、ゲートとか、通過するものとか、入り口という感覚でとらえてください。この真門にいる人とは、自力で菩薩の行を行ったり、善人になり、阿弥陀さまのお浄土に生まれることは無理だと気付いてそれを止め、お念仏を称えてお浄土に生まれようとする人です。

しかしこの真門は、南無阿弥陀佛のお念仏は称えてはいるのですが、その心持ちや意味合いが、要門や聖道門と同じであることを示しているのです。どういうことかと言うと、お念仏を、自力で積み重ねる善根として考え、その積み上げた善の力でお浄土に参らせてもらおうとしているのです。

 なぜこの考え方ではいけないのかというと、このお念仏の捉え方だと、称えるものの心の綺麗さ・汚さで差が生じることになりますし、称える回数のよっても差が生じることになります。すなわちお念仏の価値が変動するということです。これは定散二善と同じで、やってもやっても安心できない、たくさん一生懸命お念仏を称えたとしても、「これで本当に浄土に生まれることができるのだろうか?」という疑問がぬぐいきれない。やればやるほど、矛盾に苦しむことになります。

これが”自力の念仏”と呼ばれ、真門の人の心持ちであって、阿弥陀さまの第二十願に説かれる「善本徳本の因によって難思往生の果を得ようとするもの」です。

 まとめていうと、聖道門も浄土門も定散二善も、自力である以上、根気のない私ではどうしても矛盾に行き詰まってしまい、これを逃れることはできないということです。


スポンサード リンク