他力は他人の力ではない



「他力」ときくと「他の人の力」ととらえる方がほとんどでです。

「浄土真宗は阿弥陀さまの力でたすけられていく教え」…というと、僧侶やご門徒の方であっても、「はい、そうです。」と言われると思います。しかし、実はこれ、正しくありません。

もちろん、世間一般で間違って使用される「他力本願」、自分は何もせず、人任せ、つまり「他人に依存する」という意味が真宗的に間違っていることはご存知だと思いますが、真宗がわかっているつもりの方も、ここが間違えやすいところで、とても重要な部分です。

浄土真宗の他力を、「私たち凡夫には力がないから、阿弥陀さまの力でお浄土に往生させてもらう。」という考え方は、間違っているのです。

え〜!?と思われましたか?どう違うのでしょう。これは私たちの「見方」に問題があるのです。

自分と阿弥陀さまを対立させた視点で見ていませんでしょうか?対立といっても、敵として見るという意味ではなく、「私と、阿弥陀さま」というように、別々に考えていませんか?


これが間違いなのです。阿弥陀さまと私は「同体」、同じ身なのです。

迷いの世界にいる私たちの目では、仏様を「超越者」として別の世界にいるように見ることしかできませんが、阿弥陀様から見れば、仏様も人間も、同じ”真実の世界”にいるのです。これはどういうことかというと、大きな真実の世界(仏の世界)の中に、小さい迷いの世界(私たちの世界)がすっぽり包まれているということです。

だから、阿弥陀さまはこの迷いの世界にいる私たちが仏になれなければ、自身も本当の仏になれないので、私たちを救う本願を誓われたのです。迷っている私が仏に成れなかったら、阿弥陀さまも本当の仏と成れないのです。それでは阿弥陀さまも困るので、「南無阿弥陀佛」のお名号を完成させて私たちに与えているのです。

これはよくお母さんのお乳に例えられます。

母乳はお母さんだけのものではなく、赤ちゃんのものでもあります。

「南無阿弥陀佛」は阿弥陀さまのものでもなく、私のものでもなく、阿弥陀さまのものであると同時に、私のものでもあるのです。

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