「高価な壷(つぼ)と飴玉」の話



 とある国の王子が、高価な壷の中に入っていた飴玉を取ろうとしましたが、手が抜けなくなってしまいました。

周りの者は、壷を壊そうとも考えましたが、その壷は隣国から贈られた、高価で大切な代物でしたので、壊すわけにもいきません。

困っているところに、一人の僧侶が現れ、こう言います。


「王子よ、壷の中でつかんでいる飴玉をはなしなさい。


王子はそれに対し


「いやだ! この飴玉が絶対に欲しい!」


とわめきます。


「大丈夫です、飴玉は、後で必ずあげますよ。ですから、そのつかんでいる手をはなしてください。」


そう言われた王子は、飴玉をつかんでいた手を離し、壷から手を抜くことができ、その後、壷に入っていた飴玉を、両手いっぱいにもらったのです。



 ・自力と他力


 このたとえ話は、「自力」と「他力」を表しています。

「自力」とは様々な修行を行い、自力で仏になろうとしたり、阿弥陀さまのお浄土へ生まれようとしたりすることです。

「他力」とは、そう言った「自力」のはからいを一切捨てて、阿弥陀さまの救いのはたらきに「まかせきる」ということです。


五濁悪世の現代の世では、「自力」の諸行によってでは、仏のさとりを得ることはできません。

つまり「自力」では「仏への道は閉ざされている」ということであり、

「他力」には「私に向けられた救いの道が開かれている」ということです。


  「自力」=「相対の心行」=「自分の心と自分の行う行」=つかむ

  「他力」=「絶対の信行」=「阿弥陀さまの救いのはたらきに、疑いなくまかせる」=はなす


このたとえ話は、仏法を求め、熱心な人ほど、その心理から遠ざかり、自分が、我が、という心にとらわれている模様を表していると味わいます。

「おまかせする」というのは、簡単なようで難しいです。

なぜ難しいかといえば、私たちが「煩悩」を捨てきれない存在だからです。

「どう生きるか」ということを私たちは考えます。

しかしその答えは仏教にはありません。むしろ「私」という存在自体を「問題」として着眼するのが仏教でしょう。

「私がこだわり、はからっているものはいったい何なのか」という問いを自分に向けると、おのずと「私が」という自分中心の「煩悩」がそこにあったのだ、ということが見えてきます。

そのことに気づかされ、そんな私をこそ「必ず救う」と呼びかけてくださる阿弥陀さまのお慈悲に、感謝させていただき、お念仏をさせていただくべきでしょう。

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