「般若心経」を読まない浄土真宗

 


 インターネット上のキーワード検索で、「浄土真宗」と打つと、予測検索の上位に必ず現れるのが「浄土真宗 般若心経」というキーワードです。

「般若心経」は、日本にある多くの仏教宗派が共通して称えているお経です。しかし、浄土真宗において「般若心経」は称えません。というより、”称える必要がない”といったほうが正しいです。

この理由を知りたい方が多いので、人気検索ワードになっているんでしょうね。


ご存知の方も多いでしょうが、まず般若心経というお経は、煩悩を絶って、真の智慧を完成させなさいというお経です。

 ではなぜこのお経が必要ないのでしょう。同じ仏教だし、称えてもいいんじゃないのか、仏教の目的は一緒ではないのか、と思われるかもしれません。仏教の目的は共通して、”さとりの境地に至ること”のはずです。

この理由は、簡単に言えば「ルート(道すじや手段)が違う」ということです。

日本の仏教界になぜこれだけたくさんの宗派が存在するのかというと、目的(さとり)という頂上に向かっていくルートが様々に存在するのです。それは、人の性格や能力は十人十色であるように、それぞれに適した手段や手順があるのです。

「お経」とはすなわち、”さとりに向かわせるための教え”です。


 ・はからいを捨てる


ここで浄土真宗に話を戻しましょう。

浄土真宗の教えは何であるかというと、阿弥陀さまの救いの願いである「南無阿弥陀佛」のはたらきを疑いなく受け取って、阿弥陀さまのはたらきでお浄土に生まれ、さとりを開く、という教えです。

すなわち、その者の力量や性格は問わない、愚かな者が愚かなまま救われていく教えです。


「般若心経」の教えは、自分で智慧を身につけ修行をしていくというものです。一方、「浄土真宗」の教えは、阿弥陀さまのはたらきにすべておまかせする教えです。

浄土真宗の立場から見るのならば、「般若心経」を称えるということは、阿弥陀さまのはたらきを”疑っている”という意味になります。いわば、”はからい”なのです。

浄土真宗の救いのはたらきを大切に思われているのならば、「般若心経」をとなえようとは思えないはずです。


例えば、飛行機の作り方が書いてある説明書があるとします。それを読んで勉強すると、はぁなるほど、なぜ飛ぶことができるのかという理屈は理解できるでしょう。これが「般若心経」です。

しかし、じゃあ、あなた一人で作ってみてくださいと言われると、これはできない。自分にはできないと知らされるのです。

それならば、もう完成した飛行機に乗せてもらって、目的地まで連れて行ってもらえば良いのです。これが「南無阿弥陀佛」すなわち『他力』です。


自分の力量で本当に救われていくことができるのか。

そのことを真剣に考えると、どうしても煩悩を断つことのできない自分、仏のような智慧を身につける修行に耐えれない自分に気づかされるのです。(煩悩が大切なさとりの種となることにも気づかされます


浄土真宗は、「般若心経」を絶対に読んではいけない!というような狭い考えの教えではありません。

やりたければやってみればいいんです。

しかしいずれ、それでは解決できないことを知らされ壁にぶち当たることを、阿弥陀さまはずっと前からお見通しであったということに気づかされていくのです。

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