真宗僧侶は修行が必要ない生臭坊主か?


修行や戒律のない浄土真宗


「お坊さんって、髪伸ばしていいの?てか修行とか戒律ないんだっけ?」

これは、私がお坊さんになって一番よく聞く質問です。友人や先輩、初対面の人からもよく聞かれます。こんな質問を私にするということは、みんな気にはなってるけど、ご縁のある真宗のお坊さんにはなかなか聞く機会がない、あるいはそのお坊さんが説明してない、ということでしょう。


 

 たしかに、お坊さんといえば、坊主頭(スキンヘッド)ですよね。わたしも僧侶になる前はそう思ってましたし、仏教学院に通っている時は、誰も求めてないのに、カッコつけて通年スキンヘッドでした。凛としてるように見えて、たしかにかっこいいです。宗派によって、定期的に剃髪をする戒律(かいりつ)があります。


 僧侶が頭を剃るというのは、お釈迦さまの生きていた2500年ほど前からあったことだそうです。当時の出家者の習慣で、いわゆる「俗世間」から離れる、という意味で頭を剃っていました。

仏教はあらゆる”こだわり”から離れることを目的とした教えです。髪の毛を伸ばしていると、髪型にこだわってしまい、修行の妨げになります。

しかし逆に、頭を剃る、ということにこだわり過ぎてしまうことにもなりかねません。実はわたしも仏教学院在学中この状態に陥っており、毎日剃髪していたのですが、時間がなく剃れなかった日は、頭が気になって、講義どころではありませんでした。

伝承によると、お釈迦さまも剃髪は年に3回ほどしかされなかったそうです。

仏教の戒律の意味は、さとりを開くための手段の一つであって、それが目的ではありません。


現代では、各宗派の寺院の数が縮小傾向にあり、兼業で他の仕事をしながら護寺運営されているところが多いです。私もそうですが、このことから、剃髪を戒律に定めている宗派であっても、仕事上スキンヘッドではマズイ場合、髪をのばされているかたもいます。


浄土真宗に話を戻すと、「得度(とくど)」と呼ばれる、僧侶になるための期間・一番最初の段階を通過するときの一度だけ、剃髪が義務付けられています。(女性は希望者のみ剃髪。)

また、真宗は「在家仏教」と呼ばれる位置付けで、出家修行者(自力聖道門)ではありません。そして、阿弥陀さまの救いは、修行をしたり戒律を守らないと救わないという条件付きの救いでもありません。ですから髪型は問われません。

かといって浄土真宗(他力浄土門)が簡単な道かというと、そうでもありません。人間はついつい浅はかな知識や、限られた経験でものを考え、思い込んでしまうことが多々あります。 浄土真宗はそういった「はからい」の気持ちから離れることが重要になるのです。

しかし、「生臭坊主」という言葉がある以上、僧侶の本分として、勉学布教は怠らず、実生活でもつつしみが大切だと感じます。なにより僧侶としての自覚があるかどうかが大切です。



 ・現代の僧侶の実態

 自覚というと、近頃は、僧侶による犯罪もよくニュースになっています。。 言語道断です。しかし、「僧侶」という立場を過剰にとりたてる世間の風潮にも、違和感を抱きます。確かに犯罪を起こすような僧侶は、間違いなく僧侶としての自覚がないと言わねばなりませんが、所属している宗派の教え自体を同じように批判するのは間違っています。

また、一般社会の厳しさを経験した上で、僧侶の世界に入った自分がよく感じるのは、お寺生まれ・お寺育ちで世間知らずな僧侶が、実際に多い、ということです。

そうゆう人たちは、はっきり言えば、金持ちのボンボン、お嬢様状態で、自分が動かなくても周りのご門徒さんが率先して動いてくれる環境で育ってきたんだろうな、という印象です。実際にこういう僧侶に会うことがよくあります。 確かに、このような僧侶しか見ていない方たちからすれば、「僧侶ってどうなん…」と思うかもしれません。

しかし一方で、お寺の収入だけでは食べていけず、一般企業に勤めながらも、「阿弥陀様の救い、親鸞聖人のみおしえを大切にしないと!」と、奮闘している、大真面目な僧侶もたくさんいらっしゃいます。

このような方々は、基本休みはありません。年中無休です。 その原動力は、「真宗の教えは本物だ、有り難いものだ」という気持ちしかありません。



 浄土真宗には修行や戒律はありません。


しかし、だからこそ、その一般社会の喧騒の中に、阿弥陀様の救い、先達方のメッセージがあるということに、気づかせてもらわねばなりません。

あらゆる物事が、仏法を聞く、つまり聴聞のきっかけとなります。

有り難いことに、すべてが阿弥陀様の救いの手のひらの中であったと知らされることが、真宗僧侶として大切なスタンスではないかと思います。


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