「仏になる」ということが仏教の目的(入門)


 

 仏教とは「仏の教え」であり、仏の教えとは何かというと、端的にいえば、「お釈迦さまと同じように仏のさとりを開くための教え」であると言えます。つまり「仏になるための教え」です。この本質から外れているものは、もはや”仏教”ではありません。


浄土真宗の勤行聖典などの冒頭に設けられている「教章(きょうしょう)」にも、

 「南無阿弥陀佛のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、常に報恩のおもいから、世のため人のために生きる。」

とあるように、浄土真宗においても、「仏になる」ということは、大事なキーワードではないかと思います。

もう一度言います。仏教の基本的な目的は、「仏になること」です。



 ・インドや中国で仏教が衰えた理由


仏教の歴史は、お釈迦様から始まりました。

お釈迦さまという人物は、私たちと同じように、両親がいて、妻子もいるような普通の人間でしたが、厳しい修行をされて仏陀(ブッダ・覚者)となられました。

「普通の人間が厳しい修行によってブッダとなる」ことが、仏教の始まりであり、同時に、現在さまざまに発展した各仏教宗派の基本でもあります。

この基本が曖昧になると、仏教の根本的な部分がぐらつくということになります。

実際に、中国でも日本でも、「仏教とは仏になる教え」という基本があいまいになった時代は、仏教が衰えた時代と重なります。これは「修行をして仏になる」という基本的な概念を忘れて、「仏をただの信仰の対象にしておがむ」という考え方になった時を示します。

「修行して仏になる」➡︎「ただの信仰対象として仏を拝む」➡︎「仏教の基本的な概念を忘れていく」=「仏教衰退」

7世紀ごろのインドでは、仏道の修行者たちが実際に「さとる」ということができなくなってきて、だんだんと仏教が衰えてきたと言われています。それにともない、ヒンズー教や他の宗教・俗信と結びついていき、吸収され、ついにはインドにおける仏教はなくなってしまいました。

中国でも、仏教の盛んな時代は、学問も修行も熱心に行われていましたが、それがなくなってくると、道教や民間信仰と結びついて、「仏」というのは単なる信仰の対象になってしまい、「仏=修行によって人間がなるもの」ということが忘れられました。

日本においても同じで、古くからある神道や民間信仰と結びついて、表向きは「仏教」と言っていても、その中身は迷信や俗信にすり替わっているものが少なくありません。



 ・「仏になる」ことが「仏教」


 このように「人間が仏になる」という仏教の基本を忘れて、仏様を単なる信仰や礼拝の対象としてみるようになってくると、仏さまと、他の宗教の神様の区別があいまいになってきます。

単に、人間の理解を超えた大きな力・超越者という存在を信じるだけなら、仏教でも他の宗教でも、「熱心に信仰すれば結局どれも同じじゃないか」ということになってしまいます。

このように、仏教の基本的な概念があいまいになってくると、仏教の存在する意味が薄れてきます。

現代では様々な宗派が存在していますが、およそ仏教とであるならば、「どうやって仏になるのか」という論理、道筋がはっきりと確立しているハズでしょう。


浄土真宗も例外ではなく、「仏になる」ことが、教えの中心にあります。

親鸞聖人も


 『ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。』(『自然法爾消息』註釈版 p621)

 『願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば』(『歎異抄』註釈版 p834)


と言われています。


だからこそ、浄土真宗の教章にも、


「南無阿弥陀佛のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、常に報恩のおもいから、世のため人のために生きる。」


と書かれているのです。

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