「お経」とは「さとりに導く教え」(入門)


 「仏さま」と言われても、科学社会で生きる現代人の私たちには、はっきりと分からないのが当然だと思います。

しかし、仏教には一つだけはっきりしていることがあります。

それが「お経」です。



「お経」とは、仏さまのお説きになった教えを、文字として書いたものです。ですから、目で見ることもできますし、触れることもできますし、書かれている意味を理解することもできます。



「お経」は、お釈迦さまという仏さまがお説きになったものであり、そのお釈迦さまは、紀元前4世紀ごろにインドに生まれた、”ゴータマ・シッダールタ”という人物であるということが、近代の研究で明らかになっています。

さらに近代の研究でだんだん解ってきたことに、「お釈迦さま以外の仏さまが説かれたお経もある」ということがあります。

これはどういうことでしょう。

「お釈迦さまの説いた教え」=「お経」ではないのでしょうか?。



 ・”さとり”を開いた人が、まだ”さとり”を開いていない人をそこへ導く教えが、「お経」


 「お経」と言えば、お釈迦さまが生きている間に説かれた教えであるという認識が強く、「釈尊一代教」という言葉があるくらいです。しかし、近代的な研究が進むにつれて、実はそういうことではない、ということがわかってきました。


まず、お釈迦さまは生きている間に、自分の説いた教えを筆記したりして、文字に残すということを一切しませんでした。

お釈迦さまがご自分の口で説法されたのを聞いた弟子たちが、お釈迦さまがなくなられた後に集会を開き、そこでみんなが聞いたお釈迦さまの説法を話し合って、確かめ合い、一つ一つの教えが正しいか、誤りがないかという確認作業を全体で行いました。

ここで初めてお経を編集したのですが、この編集のことを「結集(けつじゅう)」と言います。

そしてまた100年くらい経った時、弟子たちは再び第2回目の結集を行いました。きっと100年の間に、教えを再確認する必要性を感じることが出てきたのでしょう。

第1回目・第2回目の結集は、ともにお経を文字として書くのではなく、「記憶」にとどめただけでした。インドでは、仏教に限らず、バラモン教でも、大事な経典は文字にせず、頭の中に記憶していたのです。

お釈迦さまがなくなられてだいぶ年月が経過した頃、ようやくお経は文字として書かれました。

これらは古代地方インド語であるパーリ語という言語で書かれていて、『南伝大蔵経(なんでんだいぞうきょう)』と言う名前で日本でも出版されています。

このお経の一部が中国に伝わっていて、「阿含経(あごんきょう)」と言われています。これは中国・日本では小乗仏教(上座部仏教)と言われています。

「般若経」・「法華経」・「華厳経」・「維摩経」・「無量寿経」・「大日経」という私たちになじみのあるお経たちは、「大乗経典(だいじょうきょうてん)」と呼ばれていますが、先ほどの『南伝大蔵経』の中には含まれていません。

つまり、第1回目・第2回目の結集の中には入っていなかったことになります。

そこで、これらのお経たちはいつ頃から存在しているのか、ということが問題となります。

「大乗経典」は、紀元前後の頃から現れてきたということが、近代の研究で明らかになってきて、

「大乗経典は、仏説ではないのか?」

という問題が、当時はさかんに問題視されていました。しかし、今日では「大乗経典は、紀元前後から歴史上に現れた」ということは常識化していて、問題ではなくなりました。


本当の問題は、「仏説とは何か」・「仏とは何か」ということです。

つまり、お経を説いたのはお釈迦さまなのか、それとも別の人物なのか、ということは確かに気になる問題ではあるのですが、一番重要なのは、「仏説とは何か・仏とは何か」という問題です。


仏教が他の宗教と違うところは、誰でもその気になって修行すれば、お釈迦さまと同じように「仏」つまり「仏陀(さとった者)」になれるという教え、というところです。

このことはお釈迦さまもお経の中で説かれていますが、大乗仏教の”菩薩(ぼさつ)”と呼ばれる人たちは、このことをはっきりと示されています。

『大乗荘厳経論』という書物に


 「もしも他の者が正覚(さとりを開くこと)して、(それを)説いて、それ(の内容)が仏説たるものとして成立しているならば、今、正覚してこのように説くものは仏に他ならぬ。」


と書かれています。

つまり、お釈迦さまでなくとも、「さとり」を開いた者は「仏」であり、その「さとり」の経験を説くことは”仏説”である、ということです。お釈迦さまでなく、他人でもいいということです。

これは、私たちの誰でも「仏」になることができるという、お釈迦さまの精神がはっきりと現れていると言えます。

お釈迦さまだけが特別な存在ではなく、大事なのは「さとり」とは何か?ということです。

お釈迦さまが他の人と違うのは「さとり」を開いた存在だからであって、同じ人間としての区別はないと言えます。

これが仏教の根本的な精神でしょう。


ですからお経には「仏を信じよ」とは書かれておらず、「仏語を信じよ」と書かれているのです。



「お釈迦さまが説いた教え」=「お経」

ではなく、

「さとりの経験をえた人が、まだそれをえていない人をそこへ導くために説かれる教え」=「お経」

なのです。


お釈迦さまが説いたことが本当だから信じるのではなく、書いてあることが本当だから、信じるのです。

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