浄土真宗(仏教)への入門


  私は、他の仕事も兼業してはいますが、一応僧侶としての生活をメインとしています。しかし、前職を辞め、仏教学院に入るまでは、完全に無宗教主義者でした。というより、”宗教”というものに関心すらありませんでしたし、難しくてとっつきにくく、すこし怖いな…とも思っていました。


 

世の中で生きていくためには宗教がなくても、実際のところ生きていけます。そのため、宗教についての関心も薄れる一方で、どんどん苦手意識が進行して、結果、「自分は無宗教だから」という思考になりがちです。多くの人は「無宗教」という都合のいい言葉を見つけて、自分を納得させていますが、はっきり言って、実際は無知で無関心なだけです。以前の私も全くコレでした。

しかしそれは大きな勘違いで、今では私自身、宗教・仏教の必要性を感じています。



 ・「無自覚的生活」から「自覚的生活」へ


 人は日々、無意識に無自覚に生きてしまう生き物です。これは1日中ボーっとしていることを指しているわけではありません。

 例えば、お金が欲しいとか、出世していいポジションにつきたいとか、魅力的な異性をゲットしたいとか、睡眠時間が足りないから1日27時間ほしいとか…これらの気持ちが満たされると幸せだなぁ、十分だなぁと考えるのは、これらすべて宗教的な観点から見ると「無自覚的生活」とよばれるものになります。

しかしこれらで満足しているだけで本当に良いのでしょうか。

 人によってきっかけやタイミングは異なると思いますが、人生のどん底に突き落とされるような場面に直面したとき、もしくは今までしてきたこと、日々の何もかもが虚しく感じるとき、「人生ってなんなのか」「人間ってなんなのか」ということを考えるようになります。

この問いを考え出すとき、人は「自覚的生活」へ入っていきます。そしてそのことについて考え始めると初めて、自分自身の弱さ、汚さ、人の感情を作り上げている根本的な負の部分に気づかされます。

ここでようやく宗教への門は開かれるのです。「自分は立派だ、他人より優秀だ」と考える人は、そもそも宗教を求めません。

 

  

 愛する方が亡くなられたその悲しみから…自分の罪深さに気づき…さまざまな理由があると思いますが、私の場合ですと、前職の行き詰まった時期がそうでした。病気で身体はボロボロ、そのストレスから仕事仲間に悪態を撒き散らして人間関係もボロボロ、そんな時、純粋に夢いっぱいに入社した頃の自分を思い出し、自己嫌悪に陥りました。そんな時、「そんなあなたでもいいんだよ」という阿弥陀さまのはたらきと出遇ったのです。


 宗教を求める姿勢は人によってさまざまですが、「苦しさを無くしたい」「病気を治したい」「とにかく楽になりたい」という考えの方が多いです。心が弱ってる時、人は何かにすがりたくなるのは当然の心理です。しかし浄土真宗では、これとは逆で、苦しさや悲しさの原因はすべて自分が生み出していたのだと知らされていきます。しかし、そんなわたしを、阿弥陀さまはそのまま救うと言われるのです。→「南無阿弥陀佛の名号とは」

 

 浄土真宗の教えは分かりやすそうでいて奥が深く、多くの人に誤解されている部分が多々あります。→「浄土真宗でよくある誤解


 また、仏教を起こしたのはご存知のとおりお釈迦さまです。このお釈迦さまが出家される伝説的エピソードがあり、「四門出遊」と呼ばれています。その経緯は私たち現代人にこそ大切で、とても興味深い話です。→「四門出遊」

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