凡夫(ぼんぶ)について


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 浄土真宗では「凡夫(ぼんぶ)」という言葉がよくよく出てきます。

凡夫という言葉を調べてみますと、


凡夫(ぼんぶ)

  …1・普通の平凡な男。

   2・煩悩にとらわれて迷いから抜けでられない衆生(しゅじょう)。


ということで、仏教では主に2番の「煩悩にとらわれている存在」という意味で用います。つまり、「愚かに迷い、苦悩する者」です。

阿弥陀さまの救いのはたらきは、まさしくこの「凡夫」を対象としたはたらきです。


しかし、多くの人は「愚かなもの」よりも「賢いもの」、「立派なもの」になりたいと願い、憧れ、努力をします。例えば、学生さんなんかは、メディアによく出てくる人気者の真似をして、賢そうな話題を振りまき、流行りのファッションに身を包み、自分も立派な人と同化しようとします。やはり、「ダメなヤツ」よりは「カッコイイヤツ」になりたいでしょう。

若者だけの話ではありません。中年から高齢の方になると、その傾向はさらに顕著です。「自分は沢山の経験を踏んできた。」「沢山の知識の引き出しを持っている。」と、ついつい自分の「経験・知識」こそが正しいと、振りかざしてしまうのを、よく見うけます。

そのため、「浄土真宗の救いは愚かな凡夫を救う教え」と聞くと、「ダメなヤツでも救われる教え」=「馬鹿なヤツが聞くだらしない教え」というネガティブな認識があると感じています。浄土真宗の僧侶は生臭坊主と言われる理由も、ここにあると感じます。


これはどうなんでしょうか。


私は「ダメなヤツが救われる教え」ほど、ありがたいものはないと思っています。

「馬鹿でだらしないものを救う」という教え、だからこそ尊いのです。

欲が深く、他人を妬み、腹を立て、自分さえよければいいといつも思っている自分。それこそまさしく「煩悩にとらわれている凡夫」であり、私の本当の姿であり、清らかな心なんてこれっぽっちもない、素っ裸の真実の姿です。

しかし、その事実を素直に受け入れられないのが人間です。

例えば、私自身、僧侶とならせていただいて、お衣を着ます。お得度から帰ると、法務を始めるわけですが、何をするにも「僧侶らしく」振舞おうとする自分がいました。まだ右も左も分からないようなペーパー坊主のくせに、です。

今考えれば猛烈に恥ずかしいことですが、周りが「お坊さん」として自分を見ていると意識してしまうと、なぜだか賢くなったような錯覚に陥り、それにふさわしく振る舞わなければいけないとも思っていました。つまり、ガチガチにイイ格好していました。お勤めもご法話も、まるでわかりきったように上から目線になっていました。これは未だにそうです。いかんですね。

これこそが「煩悩にとらわれて抜け出せれない」状態なのですが、なかなか気づくことができません。


繰り返しますが、阿弥陀さまという仏様は、「煩悩にとらわれて苦悩する愚かなもの」を、なんとかして救おうとご苦労されたのです。いわば「すべてこの私のために」救いの願いを建てて下さっているのです。

親鸞聖人は言います。

  浄土真宗の者は愚者になって往生す

阿弥陀さまのお浄土には、「愚か者」になって参らせていただくのです。賢そうに振る舞うことも、立派に見せることも、知識・経験を振りかざすことも必要ありません。

その愚か者のために、阿弥陀さまは法蔵菩薩となり、救いの誓いを建て、その救いの対象は「どうしようもないあなたなのです」と願われたのです。


どんなに有り難い事があったとしても、お念仏を素直に申す事のできない私、口では「仏法は尊いことです」と言いながらも心は仏法に背を向け続ける私、そんな私をこそ、「必ず救うぞ」と喚び続けてくださることこそが、嬉しいことなのです。

ちゃんと凡夫になりましょう。そして、阿弥陀様に、お念仏で「ありがとうございます、おかげさまです」と言える人にならせていただきましょう。

なんまんだぶ なんまんだぶ。

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