「鬼は外」は正しいか?


 日本の伝統的な行事に「節分」があります。

「鬼は〜外、福は〜内」

「自分にとって悪いこと」を外に追い払って、「自分にとって良いこと」を引き入れようとするこの精神は、お祭りやイベントの大好きな日本人には無意識に刷り込まれ、「当たり前」となってはないでしょうか。


仏教の本来の考え方は、自分の内面にある「煩悩」と向き合い、どう生きていくのか、というのがテーマであります。


 ・鬼は誰か


そもそも、この節分の文句のように、「自分にとって悪いこと」を外に追い払って、「自分にとって良いこと」を引き入れようとするこの精神はどう思いますか?

かなり身勝手な考え方ではないでしょうか。

また、「鬼」というのはどんな意味かというと、「腹を立てて聞く耳を持たなくなる自分勝手な心の状態」という意味だそうです。聞く耳を持たなくなり、冷静に状況判断が正しくできなくなり、それによって悪いことが起きることを、「鬼が来る」と例えたようです。

そういう意味合いだということを踏まえた上で、今も「節分の豆まき」が全国的に行われ、「鬼は外」という身勝手な言葉に何の疑問も持たないことが、問題であると言えます。


 ・浄土真宗と鬼


「鬼」ということを「自分勝手な心の状態」と考えますと、それは仏教でいう「煩悩」であるとも言えます。

妙好人(みょうこうにん)として有名な「才市(さいち)さん」は、「自分こそ鬼だ」と言われていたそうです。



 自分の肖像画を描いてもらう時にも、絵描きに「ツノ」を書き加えてもらい「鬼」にしてもらったという話は有名です。

「鬼は外」ではなく、「鬼は内」の精神なのです。

この「煩悩にまみれた鬼」の私こそを、救いの目当てとされているのが「阿弥陀さま」です。

そのことを深く味合われ、噛み締めた才市さんは

「ご恩うれしや、なむあみだぶつ」と言わずにはおれなかったのでしょう。


普通、「煩悩」は余計なもの、邪魔なもの、無くそうとするものですが、浄土真宗では「煩悩」は大切なものなのです。


法然聖人はご自身のことを「十悪の法然房」「愚痴の法然房」と言われ、

親鸞聖人は「愚禿」とご自身を名のられました。


もちろん、「煩悩」はいいものではありません。

しかし、私たちは自分の煩悩と向き合う時、初めて自分の愚かさや、本当の浅ましさに気付かされ、仏法の真実さに気づかされるのです。煩悩があるからこそ、「そんなあなたをこそ必ず救う」という阿弥陀さまの救いのはたらきの有り難さが身にしみるのです。


「鬼は外」ではなく、自分自身の「鬼」つまり「煩悩」と、積極的に向き合っていくことが、浄土真宗の生きかたではないでしょうか。

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