親鸞聖人の生涯(北陸〜関東への移住)



 理不尽な流罪で越後に流されてから4年後(1211)、親鸞聖人の元に罪を許す「赦免(しゃめん)」の知らせが届きます。親鸞聖人40歳の頃です。


例えば、あなたが無実の罪で捕まったとします。4・5年後に釈放された時、何を真っ先に思うでしょうか。多くの人は、一番会いたい人に会うことを願うと思います。自分が何を思ってこの数年を生きてきたか、自分を一番理解してくれると思われる人のところへ行きたいと願うのではないでしょうか。


親鸞聖人の場合、それは師である法然聖人であったはずです。普通なら、喜び勇んで京都に出発するでしょう。しかし、流罪の期間終了の知らせが来ても、親鸞聖人は法然聖人に会うために、京都には行きませんでした。京都には行かず、流罪地である越後にしばらくとどまり、その後、関東に移動して行ったのです。これはなぜだったのでしょう。


師である法然聖人も、親鸞聖人と同じタイミングで流罪の許しが出ていたのですが、その影響力を恐れた役人たちは、法然聖人を京都に立ち入らせることを許さなかったのです。そのこともあり、親鸞聖人は、法然聖人いない京都に帰る気持ちにはならなかったというのもあります。

また、越後にとどまり、その後、関東に移っていったのは、当時そこに暮らしていた現地の人たちの苦しい暮らしぶりに触れたからではないかと考えられています。



 ・苦悩する新百姓たち


農家のあり方といえば、農地を代々引き継いでいくというものでした。かく家庭が農地を持っていて、それを代々守り、生きていたようです。しかし、当時の北陸の農家では、長男に代々の農地を引き継がせ、次男・三男にまで農地を分け与えることができなかったようです。

このように農地を持っていないものたちは「新百姓」と呼ばれ、農家の下働き、いわゆる雑用などをして命を繋いでいました。このような人たちが多くなっていたのです。こうした人たちは、自分たちの生きて行く道として、関東の地へ土地を求めて移住したと言われています。


親鸞聖人の目には、このようにもがき苦しみながら生きていた人たちがどのように映っていたのでしょうか。おそらく、目を背けようとしてもそらすことのできない、記憶から消すことのできないような光景だったのではないかと思います。その人々の生き延びることへの苦悩、厳しさを目の当たりにして、親鸞聖人は、「この人たちとともに歩むしか道はない」と感じたのではないかと思います。また、その厳しい現実から目をそらしてはならないと、ご自身を厳しく見つめられていたのではとも思います。


ところで、親鸞聖人にとって「お念仏を申す」ということは、どういうことだったのでしょうか。それは「自分の称えるお念仏」がそのまま「阿弥陀様が私を呼ぶ声」として受け取られていたはずです。そして、愚かに迷っているこの私を、呼ばずにはおれない阿弥陀様のお慈悲・親心を受けとる道であったのです。それは言ってみれば、「声にならないような人々の苦悩の叫びを聞き取る」ことでもあったのです。

もし仏様の「必ず救う」という大慈悲のお心が届いていたのなら、目の前にあえぎ苦しんでいる人々がいて、それを見て見ぬ振りして素通りすることができるでしょうか。「お念仏」の救いは、深い苦しみを抱え、深い悲しみに沈んでいる人にこそとどきます。親鸞聖人は、自分自身にも深い苦悩を抱えていたからこそ、現地で苦しみ迷っている人々に対して、知らん顔をすることはできなかったのです。また、そのような現状から目をそらし、歩みをともにできないようなものに、阿弥陀さまのお慈悲の声を受けとることなどできない、とも思われたことでしょう。

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