親鸞聖人の生涯(流罪)

 

 現代では犯罪を犯すと、学生なら少年院、成人であれば刑務所に収容されます。しかし、親鸞聖人の生きた時代には「流罪(るざい)」という刑もありました。流罪は流刑(るけい)とも呼ばれ、罪人を辺境の地や島に送る追放刑です。歴史的に見ると、流罪は昔から存在していて、投獄よりも重い罪とみなされた場合に執行されることが多かったようです。また、死罪にすると、反発が大きいとみなされた場合にも流罪をかせられることが多かったようです。流罪は、罪の重さによって距離が遠くなり、近流、中流、遠流と三段階あります。


承元の法難(1207)によって、法然聖人やその門弟たちは流罪に処されます。

親鸞聖人は一番重い「遠流」である越後(えちご)…(現在の新潟県上越市)に流罪が決まりました。

現代に生きる私たちが想像する刑罰は刑務所収容です。移動も車に乗せられて、刑務所に行きますが、当時は流刑先が決まったら、そこまで歩いて行かされます。親鸞聖人は役人に連れられて、京の都から約一ヶ月かけて北陸路を歩き、また途中、通行困難な場所は船で迂回し、目的地の越後まで行きました。時期的には2月か3月ごろであったとされ、それは想像を絶する寒さの中、流刑地に赴かれたのだろうと思います。


流罪になられたのは親鸞聖人35歳の時でした。それまでに、比叡山の厳しい修行や、念仏弾圧など、苦難を乗り越えてきた聖人でも、それは大変なことであったのだろうと想像します。

また、この流罪で聖人らは、僧籍剥奪(僧侶の資格を取り消される)、法名(僧侶としての名)も取り上げられて、俗名を国から与えられます。親鸞聖人も、当時は「綽空(しゃっくう)」という、法然聖人にいただいた法名がありましたが、これをやめさせられ、「藤井善信(ふじいよしざね)」という名前を名乗るように決められたのです。


親鸞聖人にとって、自分のそれまでの仏道の歩みそのものであった法名を取り上げられることは、相当なショックであったと思います。俗名に還されることはいわば、人格を奪われることに等しいことであったと想像します。



 ・「非僧非俗 愚禿釋親鸞」を名のる


親鸞聖人と聞いて「非僧非俗(ひそうひぞく)」という言葉を思い浮かべる人は少なくないのではないでしょうか。

親鸞聖人はこの流罪を機に、「非僧非俗」を自らの生き方とし、「愚禿釋親鸞(ぐとくしゃくしんらん)」と名のるようになられたのです。

「非僧」とは「僧侶にあらず」、つまり国家から認められた僧侶とは対極の存在であると同時に、仏さまに背き、真実に背を向けて生きる自分自身の姿をあらわし、

「非俗」とは「俗にあらず」、すなわち、権力によって無理やり還俗させることへの強い批判、また、俗人のように自分の欲望を満たすだけの生活を否定し、俗でありながら俗を越え、仏の真実に向かって生きるという願いを込められた生き方です。


私は、多くの人は大きな挫折を味わったり、あまりにも理不尽な仕打ちを受けると、その相手を徹底的に批判・攻撃する、もしくは堕落する、と思っています。これは日頃から自分自身をしっかり見つめることができていないからであって、結局のところ、自分をこんな目に合わせた相手に完全に非があると言って、弱い自分を擁護しているからです。また、堕落するのも、その現実を受け入れようとしていないからであり、そこで堕落しても何も変わりません。どんな理由であれ、逆境に立たされたり、挫折を味わったとしても、そこにいるのは紛れもない自分自身です。現実逃避をするのではなく、どんな苦しみも悲しみも、逃げずに真正面から向き合ってこそ、本当の進むべき道が見い出せると思っています。

親鸞聖人は、この流罪でそれまで積み重ねてきた自分の仏道の歩みを、国家権力と他の仏教勢力によって踏みにじられたのです。しかし、親鸞聖人は怒りを爆発させることもせず、かといって俗人として堕落したわけでもありませんでした。たまに、この時の親鸞聖人は「怒りに打ち震えていた」などと言われる方もおられますが、私はそうではないと思います。親鸞聖人は、もちろん憤りはあったでしょうが、同時に現実を受け入れ、「お念仏」とともに生きることを願い、そして自分自身の姿を厳しく見つめていかれたのではないでしょうか。



 ・流刑地での生活


流刑地に到着した親鸞聖人は、「流人」の生活を始めます。流人は、最初の一年間は、米と塩の支給があるのですが、それ以降は支給が打ち切られます。つまり、一年経過した後は、現地の住民と仲良くして命をつなぐか、自分でなんとかするしかないという生活だったのです。

このころの親鸞聖人の生活を示すものはありません。都会育ちで学問や修行しかしてこなかった当時の親鸞聖人は、どのようにして命を繋いだのでしょうか。おそらく、現地の百姓や漁師たちとのつながりを深め、この現地の人たちから生活の術を学ばれたのではないかと思います。

のちの親鸞聖人の著作の中に

 「いし・かわら・つぶてのごとくなるわれら」 (『唯信鈔文意』註釈版 p708)

と記されています。

「石ころ」という”モノ”として評価されるような、底辺に生きる庶民の人々を、親鸞聖人は「われら」と言い、ご自分もそのうちの一人であることを示されています。流刑地でであった「底辺の暮らしをしている人々」とのつながりが、親鸞聖人に新たな視点を与えたのです。


善根を積むどころか、生き延びるためには、仏教で「悪」とされることも、あえてしないと生きていけない悲しい人々を、親鸞聖人は見てしまったのです。

理想ばかり求める当時の仏教のあり方を再び問い直され、そのように罪を犯さなければ生きていけないような人々もともに救われていく道は、やはり「お念仏」しかないということを、改めて感じたのではないかと思います。この流罪の体験が、親鸞聖人の生涯にわたって中心となるのです。

理想を追い求める生き方を徹底的に捨て去り、「みな同じく斉しく」救われていく道を求められたのです。

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