親鸞聖人の生涯(念仏禁止)


 世の中に新しい価値観を打ち出す人が現れたり、それまでの常識を覆すようなことが一般に受け入れられ始めると、必ずそれに反発する存在が現れます。

多くの人は、現状を維持することで安心する場合がありますし、秩序が乱れることを恐れる場合も多いです。また、その「新しい価値観」の出現によって自分の立場が否定されたと思い、それを快く思わない人たちがいるということもあります。そのため、「新しい価値観」の本当の良さや真意が一般的に広く認められるまでには、どうしても時間がかかります。

法然聖人の説かれていた「お念仏を称えるだけで救われる」という仏道は、当時の日本仏教界ではあまりにも斬新なものだったので、それを快く思わない比叡山の僧侶たちは、「念仏の禁止」を訴えたのです。



 ・比叡山延暦寺(天台宗)からの圧力


親鸞聖人が法然聖人のもとで学んでいた「お念仏」の教えは、次第に周辺地域の人々の間にも広まりました。

しかし、お念仏の教えが広まってくると、それを快く思わない人たちが、「今のうちにその芽を摘んでおこう」という活動を起こし始めます。


 元久二年(1204)、比叡山の僧侶たちは、念仏の禁止を当時の天台宗のトップであった天台座主・真性に訴えたのです。それは、お念仏だけが救われる唯一の道であり、他の行はきっぱりすてるという「専修念仏」の教えが、旧仏教を否定するものと受けとられたためです。

比叡山の僧侶たちからしてみれば、自分たちの日々修めている修行や学問が否定されることになりますし、またお念仏の教えが広まることで、一般の民衆からの自分たちに対する権威も衰えてしまうとも感じたはずです。これは当時の支配者にとっても同様で、政治の権威を軽視し、社会の秩序を乱す教えだという印象を持たれたのです。


これを受けた法然聖人は、門弟たちに対し、”阿弥陀仏以外の仏や菩薩を否定しないこと”、”罪を犯しても恐れることはないなどと説かないこと”などを厳しく戒める「七ケ条の制誡」をつくり、そこに署名させたのです。つまり、これ以上他宗や国家を敵にまわさないため、そしてお念仏の教えの真意を誤解されないために、このいましめを守ることを、門弟190人に対し署名をさせました。親鸞聖人も87番目に「僧綽空(しゃっくう)」の名前で署名されています。



 ・「承元の法難(じょうげんのほうなん)」


これでおさまるかと思いきや、翌年(1205)、奈良の興福寺が法然聖人とその弟子たちの罪を9つあげて、理論的な批判(お釈迦様を軽視、戒律否定、国家の法を乱す、など)をし、これを朝廷に訴え処罰するように求めました。これを「興福寺奏状」と言います。


さらに翌年(1206)、時の権力者であった後鳥羽上皇の女房たちが、法然門下の主催する念仏会にお忍びで参加したことが発覚し、そのことが原因となり後鳥羽上皇の怒りに触れてしまいます。このことから翌年(1207)、4名の法然門下の僧侶が死罪、また、法然聖人をはじめとする8名(親鸞聖人も含む)の門弟たちは流罪となったのです。



 多くの人は変化を恐れます。また、「あれも大事、これも大事」と抱え込んでしまうこともよくあります。そのため、本当に大切な「真実の道」にたどり着くことができません。自分にとって本当に必要なものは何か、ということ求めることこそが「真実の道」であるとも言えます。そう考えると、他を批判し攻撃するという行為は、「真実」から遠ざかっていくことに他なりません。

世の中はウソの情報で溢れかえっています。何が真実で、何が嘘か、見極めることはとても難しいです。

だからこそ、法然聖人や親鸞聖人ののこされた「真実の道」、選びとられた「お念仏の道」を生きるということを、しっかり意識することが大事であると思います。

スポンサード リンク