親鸞聖人の生涯(死の自覚)



 親鸞聖人は、9歳から29歳までの20年間、天台宗の僧侶として学問と修行に打ち込まれていました。

言い伝えによると、19歳の頃から「死の自覚」があったとされています。


現代社会に生きる私たちの中で、真剣に「自分の命はいつなくなるかわからない」と考えて日々を生きている人はいったいどれほどいるのでしょうか。大病を患って、余命宣告を受け、死と向かい合ってるような状況でない限り、私たちは日頃、当たり前のように「明日がある」と考えてしまって、本当に優先しなければいけないことがわかっていません。

例えば、会社勤めをされている方でしたら、現在自分の抱えている仕事のこと、その問題点に頭を抱え、取引先との交渉に気をつかい、上司部下との人間関係に忙しく悩み、職場と家の往復という毎日を送っているかもしれません。正直「明日死んだら」などと考える暇もなく、一日があっという間に過ぎていきます。

学生も同様で、大人からすれば時間がありそうに見えても、授業の課題、部活やサークル活動、友達との付き合いなど、ほとんど社会人と同様に気忙しく生きています。本気で「明日死んだらどうしよう」と考えている人は皆無でしょう。


親鸞聖人の場合、比叡山での修行に励まれ、学問もとことん深く学ばれていたのでしょうが、その目的が「仏になる道」「救われていく道」を求めることだったので、次第に悩まれます。それは、どんなに修行をしても、「仏になる」ということが見当がつかない、またどんなに学問を深め、仏法を頭で理解しても、「救われた」という実感がもてない、自分の命に深く響くような教えとの出あいがない、という悩みです。


そんな悩みに対して一向に解決の糸口が見えなかった親鸞聖人は、19歳の時、磯長(現在の大阪)にある、聖徳太子の納骨堂であった「聖徳太子廟」を訪れ、そこにこもられ、自分の進むべき道を聖徳太子に求めたのです。

そこで夢告を受けます。


 「汝の命根、まさに十余歳なるべし」

 (あなたの余命は、あと10年です。)


当時の「夢」は、今に比べてとても重要な意味を持つものでした。いわば、親鸞聖人はこの時、今でいう「ガン余命宣告」に匹敵するショックを受けたことでしょう。


「死の自覚」を持っていた現代社会に生きる有名な人といえば、アップルの創業者の一人、スティーブ・ジョブズ氏がいます。彼は、あるスピーチでこんなことを言いました。


 「私はある時から、毎朝鏡の前に立ち、そこに映った自分にこう問いかけるのです。もし今日が自分の人生最後の日であるとするのならば、お前が今日これからやろうとしている予定は、本当にしたいことなのか。」


スティーブ・ジョブズ氏はこの問いかけを自分にすることで、本当に重要な「しなければならないこと」を選択していたと話していました。社会でのプライドや事業の失敗に対する不安も、「死の自覚」を持って考えれば、実はそれらは大した問題ではないと気づくのだと言いました。


「死の自覚」とは、あれもできる、これもできるという命に対するぼんやりとした意識を、「残された時間で、自分はいったい何をするべきなのか」という意識に激変させるものです。

私たちは、毎日忙しく過ごしているはずなのに、気づけば何となくぼんやりと日々を過ごすような生活をしてしまいがちです。それに対し、「本当にそれを今しなければならないのか」という問いを出し、一つ一つ選択していくのが「死の自覚」なのです。


19歳の時に「お前の命はあと10年」と言われた親鸞聖人は、さぞ衝撃を受けられたことでしょう。そして、熱心に励まれていた修行や学問にも、さらに没頭され、救われていく道を必死になって求められたのではないでしょうか。

そして10年後、親鸞聖人は答えの出ないまま29歳を迎えます。その時に比叡山を下りられ、後の師である法然聖人を尋ねられるのです。


ここでついに親鸞聖人は求めていた解決の道にであったと確信されます。

 「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」

あまりにもシンプルな法然聖人のこの一言が、今まで親鸞聖人が長年求めていた答えでした。

「29歳」というのは親鸞聖人にとって”人生最後の年”という覚悟があったはずです。その時、法然聖人に出会われ「お念仏」の教えにめぐりあうことで、「雑行をすてて本願に帰す」ことを心に決められたのです。親鸞聖人は90歳まで生きられたので、夢告どおりにはなりませんでしたが、20年間もの間、答えの出ない苦悩の日々を過ごす過去の親鸞聖人は、この時「死んだ」と言えるのかもしれません。 「死の自覚」をもって、必死に「本当の救いの教え」を求めたからこそ、法然聖人との出遇いに結びついたのでしょう。



現代社会に生きる私たちは、医療の発達によって「歳をとっても若く元気でいたい」という願望を叶えつつあります。多くの人は自分の欲望を叶えることに必死になって、大事なことを見失うのではないでしょうか。

その欲望を実現してしまう代償として、この「死の自覚」を失おうとしているのです。

ただ単に未来を延ばすことは実現されたとしても、そこに「本当に自分が人生をかけてやるべきこと」を見つけることはできるのでしょうか。

ちっぽけな人間の世界で寿命が延びることだけによろこんで、本当に大事なことを忘れてしまうことが、何より恐ろしいことだと思います。

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