親鸞聖人の生涯(修行時代)


 

 9歳で出家・得度をされ、比叡山に登り天台宗の僧侶となられた親鸞聖人は、29歳までの20年間、修行と学問に打ち込まれます。

毎日のように勉学、修行に明け暮れたのはやはり「人生とは何か」「救われていく本当の道はあるのか」という求道の精神からであったのは間違いなかったとは思います。しかし、残念ながら、比叡山時代の親鸞聖人の様子を証明する資料が極めて少ないため、実際のところははっきりとはわかりません。

唯一はっきりしているのは、「常行三昧堂」というお堂で、比叡山の請け負った祈祷(きとう)を専門にとりおこなう、「堂僧(どうそう)」という役目をもっていたということです。

また、後々の親鸞聖人の著作に見られるように、仏教に対する深い理解と知識の広さから、20年間の勉学、修行の日々がどれだけ濃密な時間であったかを感じさせられます。

しかし、その真剣な求道の心は次第に行きづまり、修行をすればするほど、ある種の疑念と苦悩が増し続けるという矛盾に苦しまれます。



 ・疑念と苦悩


当時の比叡山は、世俗化が進む傾向にあり、僧侶の役目といえば、もっぱら現世利益を求めた加持・祈祷であったとされています。つまり、純粋に仏法の救いを説くのがメインではなく、「世俗的な欲望や願望を叶えるための仏教」になってしまっていました。

「人間が真に救われる道」を求めていたはずなのに、自分は何をしているのか、何のために仏法を求めていたのか…という疑念が起きたのかもしれません。

また、比叡山の僧侶たちは、仏教の理論や真理を追究するあまり、世の中の人々の悩みや苦しみに対して無関心という雰囲気が蔓延していました。真理の追究に我を忘れてしまうような当時の仏教のあり方にも、親鸞聖人は違和感を感じていたのかもしれません。


このころの親鸞聖人の深い悩みを表した「赤山明神の女の伝説」という話があります。

 


親鸞聖人26歳のある日、京の町で用事を済ませ、比叡山に戻る道中、赤山明神の前を通りがかった時、品のある美しい女性に声をかけられます。

 「お坊さま、どうぞ私を比叡山に連れていって、仏教をぜひお聞かせいただけませんか?」

しかし親鸞聖人は

 「比叡の山は女性が立ち入ることを禁じた山ですので…」

と断ると、

 「それは仏教の心に反することにはなりませんか?すべての人々を救うというのが仏様のお慈悲であるはずなのに、女であるということだけで救いから締め出すのはすじが通りません。太陽の光は山の頂上だけでなく麓も照らします。雨水は高嶺にとどまることなく、流れ下って谷底まで潤すではありませんか。 僧侶である自分たちだけが清らかな聖者として誇っていても、それは仏さまのお心に背くことにはなりませんか?」

と詰め寄られ、親鸞聖人は反論できず、逃げるように比叡山に帰ったというお話です。



この伝説が実話にもとづいたものかどうかは定かでありませんが、9〜29歳までの仏道修行における親鸞聖人の問題意識が、うかがい知ることができます。


比叡山はすでに「仏道を真摯に求める求道者の道場」ではなくなっていました。

仏教の学問を極め、本来の道を忘れて、高い地位を求めることを軸としてしまったり、もしくは比叡山の麓に、隠れながら遊びの女性をもつような堕落した僧侶がいたり、またそれを見て批判する僧侶もいたはずですが、そのようなものも、結局は自分の殻に閉じこもって、自己完結したような仏教の学問に満足するような有様であったと言われています。

そんな比叡山の中、親鸞聖人は、自分の求める道とは、いったい何なのかということを悶々と悩むような青年期を過ごされたのです。

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