親鸞聖人の生涯(往生)



「往生」とは「ゆき生まれる」という意味です。


 世の中の多くの人は「死ぬ」ことと「往生」することを同じ意味と捉えています。そのためこの世の命が終わること、つまり肉体の寿命が終わることを往生というという意味と認識している人が非常に多いのです。

しかし、これは間違っていると言わなければなりません。なぜなら、「死ぬ」ことが必ずしも「往生する」こととイコールにはならないからです。


 親鸞聖人は90歳になられた頃から体調を崩され、寝込むようになります。弘長2年、11月の下旬のことです。

その頃の親鸞聖人は、世間のことを口にすることはなく、ほとんどお念仏を申されていたと伝えられています。それはきっと、阿弥陀さまに遇えたよろこび、ご恩に対しての「感謝のお念仏」であったことでしょう。親鸞聖人はいよいよ自分の死期が近づいていることを予感されていたのでしょう。それは「死ぬ恐怖」ではなく「広大な世界に生まれゆくよろこび」であったのではないでしょうか。親鸞聖人は寝こまれるようになったその月28日に、お念仏の声も絶え、ご往生されました。苦労に苦労を重ねられた90年の人生でした。


単なる「死」であれば、暗闇に消えていくイメージです。しかし、「往生」のイメージは、暗く悲しいものではなく、むしろ閉じこもっていたタマゴのかたい殻をこわし、外の広い世界へと生まれるというものです。そのため「死」=「往生」ではありません。なぜならば、死ぬ人が全て往生、つまり仏になれるとは限らないからです。

例えば、それは同じ卵であっても、親鳥に温められなければヒナとして生まれることができないことと同じで、温められなければ卵は腐ってしまうということです。阿弥陀さまの救いの光は、確かにすべてのものに分け隔てなく届いています。しかし、その光が映らないように自らの心にフタをしてしまっていれば、そこに光は届きません。

親鸞聖人は、私たちに、阿弥陀さまの救いのはたらきに気づいて欲しいと願われています。


 「生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめる我らをば

  弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける」


生まれては死にを無限に繰り返し、迷っている私たちを、阿弥陀さまはずっと救いたいと願われています。

生死の苦海というのは私たちの迷いの世界のことであります。その苦しみの海に、私たちは沈んで浮き上がることができません。「われら」というのは、親鸞聖人ご自身を含め、私たちみんな、ということでしょう。

そこに阿弥陀さまの救いの船が浮かんでいるのでしょうか。そうではありません。阿弥陀さまの救いの船は「生死の苦海」そのものを包み込んでいるのです。

「のせてかならず」なのです。私たちが乗り込むのではありません。すでに、阿弥陀さまの救いの手の内にありながら、そのことに気がつかず、疑い、背をむけ続けている私たちに、親鸞聖人は呼びかけられているのです。

人間に生まれ、仏法に遇わせていただいたのに、単に「死ぬ」のではもったいないではありませんか。「往生」させていただきましょう。仏様にならせていただきましょう。「かならず救ってくださるよ」と言われる親鸞聖人のお言葉のあたたかさと力強さが、本当にありがたいことだなあと感じます。

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