親鸞聖人の生涯(三部経読誦)


 

 流罪の許しが出てからもしばらくの間越後にとどまった親鸞聖人は、42歳ごろ、関東への旅を始めます。これは、北陸では農地がなく、生きていくために故郷を捨てて移住する人々に同行したためであったとされています。関東への旅とはどんなものだったのでしょう。この旅に同行していた親鸞聖人の奥さまである恵信尼さまが、この時のことをお手紙に記されています。

そのお手紙によれば、どうやらこの旅の道中で、大惨事に出くわしていたことがわかっています。

親鸞聖人や北陸からの移住する人たちが関東へ向かった年に、どうやら大規模な洪水がその周辺地域を襲ったという記録があります。旅の途中、佐貫(さぬき)というところで、ともに旅する人々や、いく先々の人々の多くが、飢えや病気で次々と倒れていったのです。

親鸞聖人はこの倒れていった方を思うと、何もせずには入られませんでした。居ても立っても居られない衝動にかられ、「浄土三部経」を1,000回読誦しようとされたのです。それは、何もできない自分の無力さから、何かできることはないか、少しでもこの状況を好転させることはできないかと、お経を読まずには居られなかったのです。それが「お念仏一つ」に生きると決め、衆生利益のためにお経を読むことはないと心に決めた親鸞聖人です。しかしそれでも、読まずにはおれなかったほど、切迫した状況だったのだと知らされます。


恵信尼さまのお手紙にはこうあります。


 「念仏の信心よりほかにはなにごとか心にかかるべきと思ひて、よくよく案じてみれば、この十七八年がそのかみ、げにげにしく三部経を千部よみて、衆生利益のためにとてよみはじめてありしを、これはなにごとぞ、《自信教人信 難中転更難》(礼賛)とて、みづから信じ、人を教えて信ぜしむること、まことの仏恩を報ひたてまつるものと信じながら、名号のほかにはなにごとの不足にて、かならず経をよまんとするやと、思ひかへしてよまざりしことの、さればなほもすこし残るところのありけるや。人の執心、自力のしんは、よくよく思慮あるべしとおもひなしてのちは、経よむことはとどまりぬ。」(『恵信尼消息』三 註釈版 p816)


親鸞聖人はこの惨事がすこしでも良くなればとの思いで、精魂込めてお経を読み続けられました。しかし、読みはじめて4、5日目にハッと気づくのです。



 ・「お念仏のほかに、何の不足があってお経を読もうとしたのか…」


浄土真宗では「衆生利益」「現世利益」「供養」のためにお経を読みません。それは「私」が思う通りの願いを達成するためにお経を読むのではないからです。仏法とは「私たちの無力さ」を正しく知らされるものです。私たちが何かを成し遂げることを発見するのではなく、「何事もなしえぬ身である」ということを発見するのが仏教です。

以前、他宗の僧侶が被災地を読経してまわっていることが雑誌で特集されていました。その若い僧侶は被災地を自分の足で見て回りあらゆる場所で読経を繰り返しました。そして最終的にその僧侶は「自分には何もできない、自分の無力さというものを、教えていただきました…」と涙ながらに言われていました。本当にその通りだなと感じました。

親鸞聖人は三部経千回読誦を途中でやめ、「お念仏」の意味を改めて深く味わったのです。人々への思いを尽くせば尽くすほど、全く変わらない現状、微動だにしない現実を体験されました。

それは「何をしても所詮、無駄だ…」という人々の苦しみから目をそらすような消極的なことではありません。むしろ、人々の苦しみの中にみずからの身を沈めて、そこで「お念仏」を申すことこそが、「真実の救いの道」であることを確かめられたのではないかと思います。

「仏さまに救われる」とは、この世での苦悩や悲しみが解決されることではありません。そうではなく、仏さまの願いを自分の願いとして生きるということを発見させられることであります。


親鸞聖人は、迷える大衆のために仏法を説いたのではありません。迷い苦しむ大衆の中に自分自身の身を沈めて、仏法を聞き、受け入れ、語り続けられたのです。

スポンサード リンク