悪人正機について


 

 親鸞聖人は、人生において、すべて「仏になる」ということを軸として判断をされ生きられました。

それは「善・悪」ということにおいても同様でした。


 「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」(『歎異抄』第三章 註釈版 p833)

(善人であっても阿弥陀さまのお浄土へ往生します。まして悪人が往生するのは言うまでもありません)



親鸞聖人といえば、この「悪人正機(あくにんしょうき)」が有名です。

しかし、親鸞聖人の「善・悪」の判断は、世間一般の判断とはまったく別の物として考えなければいけません。

そうでなければ大変な誤解を招きます。と同時に、親鸞聖人の「善・悪」の視点を知ることで、「悪がなぜ罪と呼ばれるのか」「ご本願がなぜ有り難いのか」ということが見えてきます。


親鸞聖人の言われる「悪人」また「罪」とはどんな意味を持っているのでしょう。




 ・「道徳的に良いこと」と、仏教の「善」は違う



親鸞聖人の著作の『歎異抄』にこんな言葉があります。


 「いづれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」(『歎異抄』第二章 註釈版 p833)

(煩悩の多い自分には、仏になる行は何一つできません。だから、どうやっても地獄が自分の”すみか”なのです。)


これは、「仏の行を成し遂げることができない」ということを判断基準として、「自分は地獄以外に行き場のない、罪の深い愚かな人間である」ということを言われているのです。

私たちならこれをどう考えるでしょうか。

…仏になる行は確かに厳しくてできないかもしれないが、人間としてはまともに生きている、恥ずかしくない生き方はしているつもりだし、道徳的にも間違ったことはしていない。だから、仏にはなれるとは思ってないけど、地獄に落ちないといけないほど悪いことはしていないはずだ。…

と考えると思います。


しかし、親鸞聖人は、仏になるための行をすることが出来ないのであれば、たとえ道徳的に良いとされることをしたところで、それはもはや罪であって、所詮、地獄に行くほかないのだと言われます。

例えば、良かれと思ってやったことで、ある人は喜んだとしても、一方では泣いている人がいるという場合があります。これは、私たちに仏さまのような「真実を見る眼」がないからであり、「煩悩」を抱えているから、本当の意味での「良いこと」はできません。逆に、知らず知らず「罪」をつくり続けているのが私たちなのです。


このようなことから、仏になるための行より他のことは、すべて地獄行きのタネとなります。ですので、私たちの日常生活での行いはすべて「罪」となるのです。


 「卯毛・羊毛のさきにゐるちりばかりもつくる罪の、宿業にあらずといふことなしとしるべし」(『歎異抄』十三章 註釈版 p842)

(ウサギの毛や、羊の毛の先についているチリのように小さなこと〔私たちの言行〕であっても、自分の作り出した罪の宿業でないものなどありません。)


私たちが良いことだと思ってする行為も、また、ちょっとだけ仏道修行のまねごとをしたところで、それらは”毒の混ざった善”である、「雑毒の善(ぞうどくのぜん)」であり、”上っ面の行”である「虚仮の行(こけのぎょう)」に過ぎないのだと、親鸞聖人は言われています。「仏になること」ということを常に人生の軸としていたからこそ、このような視点でご自身を見られていたのでしょう。


また親鸞聖人は、世間一般的には重罪である「殺人」についても、このようなことを言われています。


 「しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人を殺すこともあるべし」(『歎異抄』第十三章 註釈版 p843)

(たとえ一人であっても、私たちが人を殺さないのは、”人を殺す縁”がないから殺さないだけです。私たちの心が立派だから殺さないのではありません。また、人を絶対に殺すまいと思っていても、100人・1000人を殺すことも十分にあり得るのです)


私たち現代日本人は平和な国に生きていて、人を殺すなんて、よほどの精神異常者でなければしないだろうと思っています。しかし、他の軍事国家を見ればよくわかりますが、”平和のための戦い”や、”テロとの戦い”という「理由」ができてしまえば、「人は人を殺す」のです。たとえそれがどんなに憎しみの対象であったとしても、「殺人」には変わりません。全ては「業縁」によるものであって、私たちの心が立派だから、殺人を犯さないのではないのです。



私たちは”煩悩”を抱えています。

親鸞聖人は、煩悩を消し去ることができず仏の行を成し遂げることができないことが、「罪」のもとであるとされました。

道徳的な視点から見て、良いおこないであっても、仏道の視点から見たとき、それは「罪」となるのです。


 「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり」(『歎異抄』第三章 註釈版 p834)

(私たちには煩悩が満ちていますので、どんな行をやったとしても、生死をはなれる〔仏になる〕ことができません。そのことをあわれんでくださり、救いの願いを起こされたのですから、その願いの本意は、このような”悪人”が仏になること〔成仏〕のためにあるのです。)


親鸞聖人のいう「悪人」とは、社会の法律上の犯罪者や不道徳な人間を指すのではなく、仏になるための行ができないものを指しているのです。



 ・仏さまの清浄な心と自分の心を比べる


このように、親鸞聖人の言われる「悪人」というのは、道徳的に他人と比べての悪人ではなく、どこまでも「仏になること」を中心としての「悪人」です。

これは言ってみれば、人生において、自分の心と仏さまの心を常に比べて、ご自身を見ていたということでもあります。

世間的な法律とか倫理とかを基準にするのではなく、仏さまの清浄な心とご自分の心を照らし合わせて見つめていたため、自分の中には「善いこと」や「美しいもの」など、一つもないと言われたのです。


 「浄土真宗に帰すれども 真実の心はありがたし

  虚仮不実のわが身にて 清浄の心もさらになし」(『正像末和讃』悲歎述懐 註釈版 p617)


親鸞聖人はご和讃にこのように書かれています。

これは、自分が道徳的に反省する心が強いということを書かれているのではなく、自分自身の心の上に、仏さまの心をはっきりと感じていたから、その清らかな心に対して自分の心の中はどうか…恥ずかしくてたまらない…というお気持ちを感じることができます。


 「無慚無愧のこの身にて  まことのこころはなけれども

  弥陀の廻向の御名なれば 功徳は十方にみちたまふ」(『正像末和讃』悲歎述懐 註釈版 p617)


そんな「恥ずかしくてたまらない」ような身でありながらも、実際は人に恥じることもなく天に恥じることもないような生き方をして、とても「仏の心」とはかけ離れた「汚い心」を、私たちは抱えています。

しかし、そのように、「仏のまことの心」がわからないようなものだからこそ、阿弥陀さまは救いの願いを起こされたのです。

本当の意味で「良い心」というものを持ち合わせていないということは、自分自身の心と、仏さまの心を照らし合わせることでようやく気づかされるのです。

そして、「仏になる」という視点から見て、自分自身には「良い心」というものが全くないということが本当にわかる、自分は「悪人」であったのだと仏さまに気づかされることが、「信心(まことのこころ)」であると言えます。


「悪人」こそが、阿弥陀さまの本当の救いの対象(正機)であるということは、世間の道徳的な”悪人”を指すのではなく、「仏さまの心」に照らされて浮かび上がる「仏になるための行ができない人間」のことを指しているのです。

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