聖道門から浄土門へ

 

 ・聖道門と浄土門


 「聖道門(しょうどうもん)」とは、自力の諸善万行によって、この現実の世界でさとりをひらく教えです。

 これはどういう意味かというと、「四門出遊」のところで申したように、仏教というのは「人生というのは苦しい」という、現実を否定するスタンスからスタートして、そこからどうやって抜け出していくか、という教えです。

「苦しい」という感情は、人間の煩悩からくるものです。

ということは煩悩を断ち切ることができさえすれば、「苦しさ」を脱することができるということです。

 すなわちこの「聖道門」の教えというのは、煩悩の根っこにある「我執」(私が私が、と思う心)を取り除いていこうとする修行法ということです。

 諸善万行というのは大きく二つに分けることができます。一つは散善(さんぜん)、もう一つは定善(じょうぜん)です。

 散善というのは廃悪修善(はいあくしゅうぜん)すなわち、悪いことをやめ、善い行いをすることです。

では、この散善でどうして我執が取り除けるのかというと、結局、悪というものは自分さえよければという利己心がエスカレートしたものであり、善というものは、自分は二の次で他人のことを思うような、自己犠牲の精神です。となれば廃悪修善というのは利己心を抑え、利他心(りたしん)を増やしていく、相手のことを思いやることで、やがて我執は無くなっていくというものです。

 定善というのは、心を一つに集中し思い浮かべる瞑想法です。この思い浮かべる対象になるのは仏さまの浄土のような汚れのない世界であったり、あるいは人間が見ることのできない仏さまの真実の姿に心を集中させたりします。こうして聖なる対象に心を集中することによって、自らの心をきれいにし、我執を越え、迷いの世界を越えていこうとするのです。


 しかし親鸞聖人は、20年間、比叡山において聖道の行をとことん実践したのですが、結局それらは効果がないということをを実感せざるを得ませんでした。自分の限界を知らされ、人間の抱える苦悩の根深さをつきつけられたのです。


 人間というものは本能と理性という、本来は矛盾するものを同時にかかえる存在です。仏教的な面から見れば、本能は煩悩であり、理性はさとりを求める心です。本能と理性は、人間の根本的な本質です。これが、上記の聖道門の修行の行き詰まる理由です。

 先ほど申したとおり、自力の諸善万行というのは、煩悩を無くし、さとりをえようとします。これは本能を否定して理性を実現しようとする道です。しかしその道は、進めば進むほど、両者は対立していくのです。


 親鸞聖人はこの人間の真実を突きつけられて、聖道門から浄土門に転入していきます。浄土門とは阿弥陀さまのはたらきである他力によって浄土に生まれ、そこでさとりを得るものです。

 ではなぜ浄土でなければならないのでしょうか。それは、お釈迦さまがこの世を去られてかなりの年月が経過したこの末世では、この肉体に宿る煩悩を完全に否定し尽くすことはできないのです。煩悩を滅し、仏になることができるのは、お浄土以外にありえないからです。

 親鸞聖人は比叡山の修行時代を経て、自力の修行だけでは仏道を完成させることはできないと明らかにされ、阿弥陀さまのお浄土に往生するには、人間の力ではなく、阿弥陀さまの力にたよる他ないと確信されたのです。

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