親鸞聖人について



 宗教というものは、その教えの理論を頭で理解すればいいというものではありません。

たまに浄土真宗の専門的な専門用語を並べ立てて、自分はまるでえらい知識人だというような態度をとられる方がおられますが、そういった態度は浄土真宗の救いから一番遠くにいる人であると言えるでしょう。

浄土真宗は、学問的な側面ももちろんありますが、「学問」ではありません。あくまでも「宗教」です。単に知識を頭に詰め込めばえらいというものではありません。そうではなく、教えを日々の生活に「実践」することが重要です。



専門用語を暗記することは簡単です。しかし、教えの大切さを本当に実感するためには、その教えを人生をかけて学ばれ、実践してきた人の生きざまを知り、それをどれだけ自分に落とし込んで考えることができるかが大事です。そうでなければ、浄土真宗も単なる学問にとどまってしまい、本当の救いというものを見出すことは難しいと思います。



一般的に「浄土真宗の開祖」と言えば、「親鸞」という回答が返ってくるでしょう。

親鸞聖人といえば、当時としてはインパクトのある、「僧侶としての妻帯」、「流罪」、「悪人正機説」など、「常識破りな僧侶」というイメージを持たれている方も多い気がします。浄土真宗のことを知ろうとした時、必ず「親鸞聖人」という人物のことを知る必要があります。

親鸞聖人は、どこまでも「仏教者」として生きられた方でした。つまり、世間的な道徳を判断基準にするのではなく、「仏になること」を基準にして、人間の行為の価値を判断されたのです。


仏教は「仏になる」教えです。

浄土真宗も例にもれず、「仏になる」ということが重要なポイントとなります。

しかし、現代社会に生きる私たちにとって、「仏になる」ということはあまりにも現実味がなく、空想のように思ってしまいます。ある人は「仏教はもう今の時代に合わない」と言われ、またある人は「仏教がどれだけ現実の人生に意味のあるものかわからない」、「仏教を考えるよりも、現実に考えないといけないことが沢山ある」と言われます。

また、「死んだら仏さまにしてもらえればそれでいい」という方や、「困った時に仏さまに助けてもらえれば十分で、別に仏にしてもらわなくても結構」と言われる方もおられます。


しかし一方で、このような現代において、750年以上前の時代に生きられた「親鸞」という人物に強烈な魅力を感じている人たちもたくさんいます。

それは何も、真宗の僧侶や門信徒に限らず、小説家・政治家・科学者・実業家・一般市民や学生に至るまで、様々な環境に生きる日本人が、親鸞聖人に惹きつけられているのです。

親鸞聖人という方は、当時は何の地位も名誉もなく、ましてや経済力も全くない昔のお坊さんでした。

しかし、そのような一人のお坊さんに、現代の様々な人が惹きつけられているのは、どういうことでしょうか。



 ・親鸞聖人の魅力


 親鸞聖人の特徴を、あえて簡単に言い表せば、「それまでの仏道の歩み方の概念からすると、極めて独特な歩まれ方をされた」ということでしょう。

それまでの一般的な仏道の歩み方といえば、普通の人ができないような激しい修行、いわゆる「難行」を行い、心を浄めていき、聖者となっていくような道でした。言って見れば、普通の私たちからは手の届かないような遠い存在となられていくような仏道です。


しかし、親鸞聖人はこれとは反対に、自分にはそういった「行」を成し遂げることはできないと言われ、浄らかな心をもつことなどできないような存在だと言われています。

いってみれば、親鸞聖人は私たちと変わらない、一人の人間であるということを告白されながら、しかし、煩悩の多く罪の深い人間だからこそ、仏にならせて頂けるのだ(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人おや)と言われ、従来の仏教の視点とはまったく違う道を、師匠である法然聖人と出遇われて、見出されたのです。


”心の汚い人間”という側面と、”仏になる”という、一見相反することが、一人の人間の上に成立していることが、親鸞聖人という人物の魅力となっていると思います。


ただ単に、煩悩が多く、人生を悩む人であれば、それは私たちと一緒で、魅力は当然感じないでしょう。

また、立派な修行僧で、私たちのような煩悩は全くなく、人生での悩みなどないような人物であれば、尊敬はしても、立派だなあと思うだけで、強く惹かれるということにはならないと思います。


私たちと同じように、家庭を持ち、お金に困り、親子関係でも悩み、理不尽な流罪にまであって、人生の苦悩を様々に味わいながらも、一方では、阿弥陀さまに救われ、仏道を自由に歩み、喜びに満ちた人生を生きられたということが、親鸞聖人の魅力であると言えるでしょう。

私たちと同じように悩み苦しまれているからこそ、その教えに学び、親鸞聖人のように苦しみから救われたいと願う理由がここにあります。



 ・「仏になる」ということが、人生の判断基準


何度も申しますが、仏教は「仏になる」ことを究極の目的とした教えです。

この「仏になる」という部分を親鸞聖人から取ってしまうと、「自己を深く反省し、道徳的に真面目な人」だったというだけで、そんなに魅力はなかったと思います。

「道徳的に優れた人」も、確かに立派なのですが、道徳で解決しないような大きく、激しい問題は、私たちの人生には山ほどあります。そういった問題に対して、”道徳”は救いをもたらしてはくれません。

親鸞聖人の場合、「仏になる」という意識が、煩悩に悩み苦しむご自身を支え、人生の中心になり、目標になっていたのです。

 

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