信心をいただくのに「真剣さ」は必要ない


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浄土真宗の救いは「信心をいただくこと」です。信心をいただくとは、阿弥陀さまの救いの願いが私にとどいていることです。そして、そのご恩に感謝する、ご恩報謝が、お寺でのお聴聞なのです。


真宗では、お聴聞が大事だと言われます。

お聴聞とはお寺で仏さまの話を聞くことです。

浄土真宗でいう仏とは「阿弥陀如来さま」のことです。その阿弥陀さまが起こされた「愚かで迷うあなたを必ず救う」という願いを聞かせていただくことが「お聴聞」であり、信心をいただくということです。そのため、自分自身が「愚か者であり、心もろくなものではない」という視点を持ってお聴聞にのぞむということが、まず土台となります。

また、「愚かなもの」と言っても、あくまで仏教的な視点から見て「愚かなもの」であるということなので、実社会での「愚か者」とは意味合いが根本的に違うということも心得ておいた方がよろしいかと思います。「悪人正機」の悪人は、世間的な悪人とは意味合いが異なるのと同じです。


しかし、多くの人は「お寺にお聴聞にいく」というと、「ありがたいお話を一生懸命に聞く」という感覚なのかなと感じます。しかし、実は仏法を一生懸命に聞くことのできないのが私たちなのです。仏法に一生懸命になれない私をお見通しなのが阿弥陀さまであります。そして、そのような私を「必ず救うからな」という呼びかけを聞かせていただくのが「お聴聞」なのです。ですから、「一生懸命にお話を聞く」という態度は、実はあまりおすすめできません。



 ・真剣になれない私


世の中では何事も「真剣に取り組む」ということが重要視されますし、「真剣に頑張る」ことが美徳となっています。もちろん、競争の激しい一般社会で生き残るためには、人一倍の真剣な努力が必須ですし、結果を残すためには、真剣さを保ち続けなければいけません。そうでなければ、周りの急速な変化に置いていかれることでしょう。

そのような社会に生きているため、私たちはお寺のお聴聞の場においても「真剣に仏法を求めないといけない」という気持ちになってしまいがちです。

確かに、真剣に仏法を求めることは、尊いことです。熱心なことは良いことには違いありません。ご法義を求める気持ちは「真剣」な方が良いと思います。

しかし、「真剣さ」というのは、実は浄土真宗においては”必要のないもの”です。

有名な深川倫雄和上は、ご法話でこのようなことを言われたそうです。


「お説教はテレーッと聞いて忘れて帰れ、眠ってもいいですよ。」


このように言われると大抵の方は「えっ?」となると思います。

これは阿弥陀さまの救いのはたらきがどういうものか理解しないで聞くと、大きな誤解を生んでしまう言葉ではありますが、深川和上の明快な表現で、私は大好きな一節です。

阿弥陀さまの救いの本質は「愚かで罪深く、落ち続ける私を、そのまま必ず救う」というはたらきです。

言葉は悪いですが、仏教的に「できそこないのものをそのまま救う」というのが、阿弥陀さまの「ご本意」なのです。けれども、私たちは「真剣に取り組む方が良い」と社会生活で教わって生きてきたので、「愚か者なんだから真剣に何かしなければいけない」という気持ちになります。

そのため、お寺にお聴聞に参っても、「真剣に聞かねば」となってしまうのです。それに、真剣に聞いてる風の方が格好がつきますし、お念仏も、真心込めて称えた方が、深く仏法を理解しているように見てもらえるでしょう。でも、それらは所詮、愚か者が装う上っ面でしかないのです。

仏法に対して、本当の意味で真剣になれる人はいません。

また、「私は真剣にお聴聞している」という意識は、かえって迷いを深めることにもなります。


結局のところお聴聞も、お念仏も、ご恩報謝です。感謝です。「ありがとうございます、おかげさまでございます。」という気持ちだけが、浄土真宗で求められる心です。

「真剣さ」を心の中心に意識してしまっていると、どうしても「自分は長いこと真剣に仏法を求めてきた」という気持ちが芽生え、大きくなっていきます。知らず知らず、「私は真剣な念仏者」であるという気持ちが膨らみ、「愚か者でございます」と言いつつも、「ああ、この話は聞いたことある、このご文も知っている、ふふん。」となってしまうのが人間の浅はかな心なのです。

いくら真剣になって何十年も聞法してきたと威張ってみても、そんな私をお見通しで、そんな私を助けるにはどうするべきかと兆載永劫(ちょうさいようごう)という果てしない時間をかけて思案されたのが、阿弥陀さまなのです。


信心をいただくことは誰でも可能です。どんな人でも救われます。しかし、そこに「真剣さ」は必要ありません。南無阿弥陀佛のお念仏がとどいていることがそのまま「救われている」という事実なのですから。

私たちが阿弥陀さまに対する心としては、「真剣に聞く」ことでもなく「深く理解しているように振る舞う」でもありません。ただただ「ありがとうございます、おかげさまでございます」という心しか必要ないのです。


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