歓喜初後


【題意】

 

 大経下巻の冒頭にある「第十八願成就文」において、第十八願で言われる「信楽(しんぎょう)」が、「信心歓喜(しんじんかんぎ)」と示されています。

その「歓喜」(よろこびの気持ち)というのは、阿弥陀様から信心をいただいた最初の時(初一念)からすでにあるのか、それとも最初にはなく、後になってあらわれる気持ちなのか、ということを考えます。

「歓喜(かんぎ)」は、初めにも後にも、どちらにもあるものですが、最初の喜ぶ気持ち(初起の歓喜)は、行者がおこなう身口意の三業で生み出されるものではない、ということを、明らかにしていきます。



【出拠】


「大経」第十八願成就文 (真聖全1−24  註釈版p41)


 聞其名号、信心歓喜、乃至一念

(その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。)



【釈名】


 【歓喜】…信心のすがた(相)、”信心のありよう”という意味でいうと、「よろこぶ」「たのしむ」という意味です。これは第十八願に言われる「信楽」の「楽」の意味と同じです。

 「歓」…賑やかに声を合わせてよろこぶ。

 「喜」…ご馳走を供え、または音楽を奏してよろこぶ。

また親鸞聖人は『一念多念文意』に

   ”歓”はみをよろこばしむるなり、”喜”はこゝろによろこばしむるなり、

と書かれています。


 【初】…「初」というのは、「はじまり」という意味です。成就文に「乃至一念」とありますが、この「一念」という意味と同じです。「信心のはじまりの時」を意味しています。これを「時剋の極促(じこくのごくそく)」と言います。

また、この「信心のはじまりの時」という表現にいくつかあり、「初起」、「初発(しょほつ)」、「初際(しょさい)」、「初一念」、「信一念」などとも言います。


 【後】…「後」とは、「乃至一念」の「乃至」のことです。 はじまり、起きた「信心」が、その後ずっと続いている様子を示した言葉です。「後続(ごぞく)」、「相続」とも言います。


 【まとめ】

 阿弥陀様の信心をいただいた時に起こる「歓喜」つまり「よろこびの心」が起こった最初の瞬間と、それ以降続く「よろこびの心」ということになります。

「乃至」の意味合いが少しわかりにくいのですが、英語でいう「since~」に近いでしょうか…

厳密には「乃至」の意味は「〜から〜まで」、「最小限度」、「少も多も含む」、「一も多も含む」など、様々な意味合いで使われますが、ここでは「多を含める」という意味合いでしょう。



【義相】


 ・この論題の焦点


 浄土真宗の救いは「他力の救い」と言われます。これは、自分で行う修行の功徳や、他の神様仏様をアテにするのではなく、阿弥陀さまからはたらきかける「本願力」に、はからいを捨てて、すべておまかせすることで成り立つ救いです。

そして、阿弥陀さまからいただく救いのはたらきを「信心」といい、その信心をいただいた瞬間に、阿弥陀さまのお浄土へ生まれることが定まり、そこで仏のさとりを開くことが約束された身となる(正定聚不退の身になる)とされています。


 この論題の焦点となるのは、「信心をいただいた瞬間」である「初起の一念」に”歓喜”の気持ちがあるとするなら、それは「私」の作り出した気持ちなのかどうなのか?ということが問題となります。

もし、その「歓喜」の気持ちが私のつくりだした気持ち(意業)であるとすると、それは阿弥陀さまの救いのはたらきにすべてをおまかせしているとは言えず、「私の気持ち」が、往生成仏することに関与していることになります。

つまり、自分が「よろこぶ」という気持ちになることが、「往生成仏」の因として成り立つことになります。

そうなると「よろこべなければ救われる身になれない」とか「気持ちの持ちようで往生できるかどうかが決まる」という間違った救いとして誤解の原因となりかねません。これを「歓喜正因」や「意業安心」、「一念覚知」などと言います。これでは、「無条件の救い」であるはずの阿弥陀さまの救いが、〜しなければ救われないという「条件付きの救い」となってしまうのです。これは非常に危険な誤解です。また、「私の気持ち」で往生が決まるとなると、口にお念仏を称えなくて良い、ということにもなり、ご恩に感謝するお念仏も、なくなってしまいます。


 しかし、「信心をいただいた瞬間」である「初起の一念」の時点で「歓喜」の心が私にはないとなると、その後の念仏生活での「歓喜」の心は一体何なのかということになります。

となると、「初起の一念」=「信楽の一念」ではないということになってしまい、これもまた難しい問題となります。



 ・「信心歓喜」=「信楽」=「信心」、これらの意味


「信楽(信心)」というのは、「金剛の真心」とも例えられ、壊れることなく強固で、生涯の中で一貫して壊れることがないと言われます。ということは、この「歓喜」という心も、最初(初起)から、その後ずっと(後続)途切れない、ということになります。

すなわち、「信楽(信心)」のすがたである「歓喜」の心は、最初の時である「初起の一念」にも当然ないといけません。

「信楽」というのは「よろこび」という意味合いに加え、まだ意味があります。

それは、「阿弥陀さまの救いのはたらきに対して、全く疑いのない心」という意味で、これを「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」と言います。

これをまとめると


  【疑蓋無雑】…疑いのない心…(信)

  【歓喜の心】…よろこびの心…(楽)

「疑蓋無雑」の心のすがたが「信心歓喜」ということ。

  【疑蓋無雑】=【歓喜の心】=【信楽】 


となります。

 「信心」と「歓喜」は、同じところにあるとします。

例えれば、「太陽」と、その太陽から放たれる「光」のようなものでしょう。

「信心」が本体で、そこにあらわれるすがたが「歓喜」です。

しかし、「歓喜」という”よろこぶ気持ち”が、往生の因になるとはなりません。

なぜなら、太陽自体から光が放たれるのは当然ですが、逆に、光があるところに必ずしも太陽本体があるとは限りません。水面に映る太陽からも、光は放たれている、ということと同じです。



 ・「初起の歓喜」と「往生の因」について


この論題の焦点は「歓喜」という心について、「初起」と「後続」の気持ちの有り様です。


【歓喜】

  「初起」…信心を疑いなくいただいたその瞬間…その瞬間に往生が定まったことによる「安堵心」(信一念の大安堵心)。

  一念とはこれ信楽開発(かいほつ)の時剋の極促(じこくのごくそく)を顕し、広大難思の慶心を彰すなり。(『教行信証』信巻 註釈版 p250)


  「後続」阿弥陀様のお浄土へ生まれさせていただくことへのうれしさ。

  「歓喜」といふは、身心の悦予を形す(あらわす)の貌(かおばせ)なり。(『教行信証』信巻 註釈版 p251)


簡単に言うと「初起の歓喜」というのは、阿弥陀様の救いのはたらきに対して疑いの晴れた瞬間の心、ということです。

阿弥陀様の救いを受け取るには、はからいを捨てる、つまり「疑いの心のない状態」になるということで成り立ちます。

つまり、「南無阿弥陀佛」のお念仏を私が疑いなく受け取ることが「信心」であり、受け取る時の心もちが、「歓喜」であって、それは信心を受け取った後の心持ちにも通じるものです。


そして、到底仏になれるような身ではないこの私を仏にしてくださる阿弥陀さまへのご恩の感謝として、礼拝したり、有り難いなあ、嬉しいなあと思ったり、お念仏称えたりする私たちのする行為は「身口意の三業」と言って、「後続」、つまり「救いを受けとった後の報恩の行」となるのです。




【結び】


阿弥陀さまのお浄土に生まれるためのタネ(因)は、あくまでも阿弥陀さまの本願力によるものです。

その本願力の船に乗せられて(自分で乗り込むのではない!)、お浄土に生まれることをよろこび、その喜びが「身口意の三業」にカタチとしてあらわれるということです。

ということで、「私がよろこぶ」という私の心によってお浄土に生まれるのではなくて、阿弥陀さまの救いのはたらきを「疑いなくただいただく」という心によって往生が決まるのです。


スポンサード リンク