三心一心


【題意】


「三心一心(さんしんいっしん)」は、浄土真宗の本当に根っこの部分で、重要な論題です。

他の論題にも通じる部分があります。


 この論題は、四十八願の中心である「第十八願」に説かれている「至心」と「信楽」と「欲生」の三つを合わせて「三心」と言いますが、その三心と、天親菩薩の著書「浄土論」に説かれる「一心」との関係を明らかにする論題です。


その関係とは、「三心」は「一心」の中におさまることです。つまり、「至心」と「欲生」が、「信楽」の中におさまる、ということです。これはどういうことなのかを詳しく考える論題となります。



【出拠】


・「大無量寿経」第十八願文(真聖全1−9)

   至心信楽欲生我国

・「浄土論」願生偈(真聖全1−269)

   世尊我一心

・「教行信証」信文類・三一問答(真聖全2−59〜73)

・「浄土文類聚鈔」問答分(真聖全2−450〜453)



【釈名】


ここでいう「三心(さんしん)」というのは、第十八願にある、”至心(ししん)”、”信楽(しんぎょう)”、”欲生

(よくしょう)”の三つのことを指します。


  【至心】…親鸞聖人は、「真実誠種之心(しんじつじょうしゅのしん)」つまり「仏のさとりに至る種」とあらわされました。すなわち阿弥陀さまの真実の心という意味です。

  「信楽」…疑いのない心。 疑いの蓋(ふた)で自分の心を閉ざし、阿弥陀さまの救いのはたらきを拒否することなく、そういった疑いの心の全く混ざらないことを「疑蓋無雑(ぎがいむぞう)」といいます。

  【欲生】…生まれることを欲するという意味ではなく、阿弥陀さまのお浄土へ生まれることが間違いなく定まり、ほっと安心している心。


  【一心】…天親菩薩の「浄土論」での直接の意味は「二心なく」という意味ですが、この「三心一心」の中では、第十八願の「三心」に対する「一心」、つまり、数字的に「3」と「1」という意味合いです。 そして、この「一心」とは「信楽」を指しています。


まとめると、「三心」というのは至心・信楽・欲生の三つの心、そして「一心」とは信楽という一つの心のことです。これらの関係性を明らかにするのが、この「三心一心」の論題です。



【義相】


親鸞聖人がこの「三心」と「一心」の関係性を書かれているのは、ご自身の著書「教行信証」の中の「三一問答(さんいちもんどう)」というところです。

そこでは二回にわたり、問いと答えを繰り返す形式になっています。


 ・一度目の問答

 問い:「第十八願には、お浄土に生まれ、仏のさとりを得る”因”(正しきタネ)として、至心・信楽・欲生の三心が誓われているのに、天親菩薩は『浄土論』でなぜ一心という表現をされたのか?」

 答え:「阿弥陀さまのご本願には三心の誓いが起こされているが、お浄土に生まれ、さとりをひらく真実の因は、阿弥陀さまから疑いなくいただく信心一つです。愚かで、気づくのも鈍い私たちが簡単に理解できるように、天親菩薩は一心と表現されたのです。」

…これはつまり、「三心」とは、イコール、疑いのない心である「信楽」そのものであるということを示しています。

これを三心即一といいます。



 ・二度目の問答

 問い:「三心がそのまま一心であることは解った。しかし、それならなぜ、愚かな私たち衆生を救うために起こされた願いである第十八願に、阿弥陀さまは”一心”と誓われずに、”三心”と誓われたのか?」

 答え:「三心、つまり至心・信楽・欲生は、愚かな私たち衆生にはもともと無いものです。その本来なかったものを、阿弥陀如来さまが準備され、完成されて、私たちに与えてくださったものです。

 そして与えてくださったものが最終的には私たちの”疑いの無い心”、つまり信楽として恵まれるのです。疑いの無い信楽一心、すなわち、”信心”だけで往生・成仏は定まります。 

 信心=一心の中に、阿弥陀さまが完成された至心の徳も、信楽の徳も、欲生の徳も、すべてを含んだ広大なはたらきであることをあらわしているのです。」


 このことから、他力の信心こそが阿弥陀さまのお浄土に生まれ、さとりを得る、「真の因」であることが明らかに示されます。



 ・約仏の三心、約生の三心


 第十八願にある至心・信楽・欲生の「三心」とは、もともと、私たち”衆生側”の立場から考えているものですが、その「三心」は、阿弥陀さまからいただいた「三心」=「信心」でもあります。

つまり、私たちの心でもあり、阿弥陀さまの心でもあるわけです。

この、私の心でもあり阿弥陀さまの心でもある「三心」が、どちら側にあるかということを、様々な角度から解釈することができます。

まず、この三心がすべて、阿弥陀さまの心とする場合を「約仏の三心(やくぶつのさんしん)」といい、三心がすべて私たち衆生の心とする場合を「約生の三心(やくしょうのさんしん)」といいます。



 ・「約仏の三心」=至心・信楽・欲生の「三心」が、すべて阿弥陀如来さまの心。


 阿弥陀さまが完成された「三心」は、「南無阿弥陀佛」のお名号となって、私たちにはたらいています。お名号には、智慧と慈悲が完璧にそなわっています。 阿弥陀さまの”智慧”を「至心」、慈悲を「欲生」とします。阿弥陀さまは、この智慧と慈悲を完璧に完成させました。よって、迷える衆生を救うことに何の疑いもない、という阿弥陀さまの心を「信楽」とします。

至心と欲生の二心によって、信楽の一心が成り立っていることから、このことを「二心成一」といいます。



 ・「約生の三心」=至心・信楽・欲生の「三心」が、すべて衆生の心。


 「約生の三心」には、3通りの解釈があります。

 ……三一問答にある解釈で、「欲生」の本体(もと)は「信楽」、「信楽」の本体は「至心」、「至心」の本体は「南無阿弥陀佛」のお名号、という、まるでマトリョーシカのような解釈があります。これを「三重出体(さんじゅうしゅったい)」といいます。 

つまり、衆生がお名号を受け取ったのが「信心」=信心の出どころは、阿弥陀さまの真実の心である「至心」です。そしてその信心を受けとる心持ちは、”疑いのない”心である「信楽」です。 

疑いのない心=「信楽」ということなら、お浄土に往生することを疑いなく信じ、往生間違いないとホッとする心=「欲生」と言えます。すなわち、「欲生」とは「信楽」にそなわっている意味合いを別表現したものであって、決して別物の心ではないことをあらわしています。 

 ……「至心」と「欲生」が、信楽にそなわっている”智慧”と”慈悲”の徳であるという解釈。

 ……「至心」を”心を至して”と読み、「信楽」の信じっぷりを表す言葉としてみる解釈。


このように3つの見方があるわけですが、どの場合にも共通して、「至心」と「欲生」の二心が「信楽」の一心におさまります。これを「一心摂二(いっしんしょうに)」といいます。



 また、「三心」の中のどれかが阿弥陀さまの心で、どれかが衆生の心という、混ざったパターンもあります。このように、「三心」を、阿弥陀さまの心と衆生の心に分けるものを、「生仏相望の三心(しょうぶつそうもうのさんしん)」といいます。


 「生仏相望の三心」=至心・信楽・欲生の「三心」を、衆生の心と阿弥陀さまの心とに分けた心。

 

  ①…「至心」・「欲生」を仏の心、「信楽」を衆生の心とするパターン

「至心」=仏の智慧の徳、「欲生」=仏の慈悲の徳として、その智慧と慈悲が完璧にそなわった「南無阿弥陀佛」のお名号に、すべておまかせする衆生の心を、「信楽」とします。これを「仏二生一」といいます。

  ②…「至心」を仏の心、「信楽」・「欲生」を衆生の心とするパターン

「至心」=阿弥陀さまの真実の心として、その阿弥陀さまの心を疑いなく受けとらせていただくのが「信楽」、そして疑いなく受けとるということは、往生成仏間違いないとホッとする心(決定要期)が「欲生」であるとします。これを「仏一生二」と言います。



 ・「三心即一」


このように、三心は様々な見方ができます。

おおもとの第十八願の意味からいえば、至心・信楽・欲生の「三心」は、衆生の往生・成仏のタネとなるので、衆生の心として解釈するのが普通でしょう。そして、その衆生の信心がどんな心持ちなのかを的確に表しているのは、疑いのない心である「信楽」です。「至心」と「欲生」は、この「信楽」の一心におさまるということになります。



【結び】


 第十八願には至心・信楽・欲生という三心が示されていますが、至心・欲生の二心は、もともと信楽の一心におさまっているものです。

阿弥陀さまからいただく救いのはたらき、他力の信心は、疑いのない心である「信楽」の一心のほかはないのです。


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