猟すなどり章(当流安心章)1−3


 まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこゝろのわろきをも、また妄念妄執のこゝろのをこるをも、とどめよといふにもあらず。たゞあきなひをもし、奉公をもせよ、猟・すなどりをもせよ、かゝるあさましき罪業にのみ朝夕まどひぬる我等ごときのいたづらものを、たすけんとちかひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一佛の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこゝろの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこゝろえて念佛まうすべきぞなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて念佛まうすべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とはまうすべきなり。あなかしこ あなかしこ。



(現代語訳)


 親鸞聖人のおすすめくださった浄土真宗の信心とはどういったものかといえば、「自分の悪い心を止めよ」とも「迷ったりとらわれたりする心を止めよ」というものでもありません。

 どんな仕事をして生計を立てていようとも(それが罪深いことであっても)、そのように一日一日をいたづらに虚しく過ごしているものをこそ、阿弥陀さまは救いの対象とし、必ず助けるとお誓いになったご本願を深く信じて、一心に、仏さまの救いのはたらきにおまかせする心が本物であれば、かならず阿弥陀如来さまの救いにあえます。

 そのことをふまえた上で、どういう心持ちでお念仏を称えさせていただくのかというと、お浄土に往生することができるのは阿弥陀さまの救いのはたらきによって信心をいただくことで往生できるのだから、その御恩に報いるためと思って、命ある限り、お念仏申させていただくべきでしょう。

このような人を「浄土真宗の信心を決定した人」というのです。

ああ、ありがたいことであります。 もったいないことであります。



 

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