お正信偈の意味 ②

 

・印度西天之論家 中夏日域之高僧

  顕大聖興世正意 明如来本誓應機

「阿弥陀さまの救いのはたらきを伝えるために、お釈迦さまはこの世に現れた」ということを、インドに現れたお二方の菩薩さま、中国、日本において現れた五名の高僧がたは明らかにされたのです。よってこの7名を、敬意をもって浄土真宗の真意を受け継がれてきた先達がたとするのです。


 ・釈迦如来楞伽山 為衆告命南天竺 

  龍樹大士出於世 悉能摧破有無見

  宣説大乗無上法 証歓喜地生安楽

お釈迦さまは楞伽山(りょうがせん)という山で、次のように告げられました。

「私がこの世界から去った後、南インドに優れた僧侶が現れるでしょう。その者の名前は”龍樹菩薩”という。このものは、世の中の間違った見解を正し、皆が救われていく道を弘めるでしょう。特にその中でも阿弥陀さまのはたらきである『南無阿弥陀佛』のお念仏を説き、自らも阿弥陀さまのお浄土へ参ることを喜び、浄土に生まれていくだろう。」


 ・顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽

 龍樹菩薩』は、自力のさまざまな修行である「難行道」はまるで陸の長い道のりを歩くように苦しく、お念仏を申す「易行道」は、海を船に乗って渡るように楽しいことであると例えられました。この二つの道の、難しさとやさしさをを示されて、難行道を離れ、易行道を疑いなく信じなさいと勧められたのです。


 ・憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

  唯能常称如来号 應報大悲弘誓恩

阿弥陀さまの救いのはたらきを、そのままいただけば、その瞬間にお浄土に生まれることが決まり、必ず仏のさとりを得る身にさせていただくのです。私たちの知識や経験を問わず、ただ阿弥陀さまのはたらきによって救われるのです。この阿弥陀さまのお慈悲のこころに、ただただ感謝し、お念仏を申させていただくべきでしょう。


 ・天親菩薩造論説 帰命無碍光如来

龍樹菩薩の後に北インドに現れた『天親菩薩』は、「往生浄土論」を制作し、西方浄土に往生することの間違いないことを述べられ、「私は、何者も妨げることのできない光の仏である阿弥陀如来のはたらきを信じます」と言われました。


 ・依修多羅顕真実 光闡横超大誓願 

天親菩薩は、「修多羅」すなわち「浄土三部経」をもとに「浄土論」を制作し、その中で、お念仏のはたらき、阿弥陀さまのはたらきを明らかにされました。そこで、自身が阿弥陀さまに帰依する理由、また他のものも阿弥陀さまに帰依すべきだと勧める理由を説明し、第十八願の確かさをはっきりと示されたのです。


 ・広由本願力廻向 為度群生彰一心

天親菩薩は自身が救われていくことはもちろんのこと、さまざまな生きとし生けるもの達も一緒に救い、皆ともに浄土へ往生したいと願われました。そこで、自身の著書である「浄土論」において、阿弥陀さまからのはたらき、すなわち「あなたを必ず救う」という声を、素直に受け取らせていただくことの大事さを解説されました。

これは、私たちのこころで願う「救われたい」という”はからい”の思いではなく、あくまでも阿弥陀如来さまの「あなたを救う」という誓いであるからこそ、天親菩薩のような”菩薩”も、罪を犯してしまうような”私”であっても、みんな共に、お浄土に生まれさせていただくことができるのです。


 ・帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数

疑うことなく阿弥陀如来さまに帰依して、あらゆる善根や功徳が海のように満ち満ちている「南無阿弥陀佛」のお名号を受けとったのなら、その瞬間にお浄土に生まれることが決まるのです。これはつまり、この迷いの世界にいながら、お浄土でひらかれている法座の聴聞者の仲間入りをするということです。この娑婆の世界に身体はありながらも、阿弥陀如来さまの説法をきくことができるということです。


 ・得至蓮華蔵世界 即証真如法性身

阿弥陀さまのはたらきを受け取るものは、この世においてお浄土の世界の仲間入りを果たすだけではありません。蓮華に包まれたような世界である阿弥陀さまのお浄土に生まれれば、往生と同時に阿弥陀さまと同じさとりをひらかせていただくのです。


 ・遊煩悩林現神通 入生死園示應化

お浄土に生まれたものは阿弥陀さまと同じはたらき、能力を身につけ、私たちの生きているこの迷いの世界に戻ってきます。この迷いの世界はいってみれば「煩悩の林」です。往生し阿弥陀さまと同じはたらきを持ったものたちは、まるでその煩悩の林で楽しく遊ぶように、迷いの世界に生きるものたちを救う活動をします。


 ・本師曇鸞梁天子 常向鸞處菩薩礼

  三蔵流支授浄教 梵焼仙経帰楽邦

『曇鸞大師』はとても優れた僧侶であり、その徳の高さから、梁の武帝という方は、常に曇鸞大師のおられる方角を向き、「曇鸞菩薩」と礼拝されました。

あるとき曇鸞大師は、寿命を延ばす術を学ばれていました。しかしその後、三蔵流支という僧侶に浄土の教えを詳しく聞かされると、寿命を延ばす術の書かれている仙経10巻を焼き捨てて、浄土の教えに入門されました。


 ・天親菩薩論註解 報土因果顕誓願

曇鸞大師は、天親菩薩が作成した「往生浄土論」を詳しく解説した「浄土論註」二巻を制作しました。

その著書で、「阿弥陀さまがお浄土を完成されたこと、さらに、どうして私たちがお浄土に生まれることができ、なおかつ阿弥陀さまと同じさとりを得ることができるのかというと、それらはすべて、阿弥陀如来になる前の法蔵菩薩の、願いと誓いのおかげで成り立っているのだ。」ということを明らかにされたのです。


 ・往環回向由他力

生きとし生けるものが浄土に生まれていくこと(往相回向)も、浄土に生まれたものが阿弥陀さまと同じさとりをひらき、迷いの世界に戻ってきて他のものを救う活動をするのこと(環相回向)も、いずれも阿弥陀如来さまのはたらき、すなわち「他力」によるものなのです。


 ・正定之因唯信心 惑染凡夫信心発

  証知生死即涅槃

阿弥陀如来さまのお浄土に生まれるには、「必ず救う」のはたらきを受け取ること、その一つで成されるのです。だから、さまざまな煩悩にまみれた凡夫であっても、この「南無阿弥陀佛」のはたらきを、うたがいなく受け取ることができたなら、その瞬間に、迷いの世界がそのままさとりの世界となることを知らされるのです。


 ・必至無量光明土 諸有衆生皆普化

どんなに煩悩にまみれたものでも、阿弥陀さまのはたらきをいただけば、限りない光の世界であるお浄土に、必ず生まれます。

そしてお浄土で仏となり、さまざまな迷いの世界にいるものたちを導き、お浄土に救い、生まれさせようと活動するのです。


 ・道綽決聖道難証 唯明浄土可通入

『道綽禅師』は、この現実の世界において自分の力で修行し仏のさとりを得る「聖道門」はとても難しいと言われました。その理由は二つあります

一つ目は、お釈迦さまが入滅され、あまりにも時間が経ちすぎていること。(実際にさとりをひらいているお釈迦さまに直接指導してもらえないし、お釈迦さまと直接接したことのある人も生きていないため、手探りで修行することになる)

二つ目は、自分の修行で仏になろうとする「聖道門」の道は、とても難解で深く、愚かなものでは到底達成できるものではないということ。

道綽禅師はこのように、「聖道門」で救われていくのは難しく、お釈迦さまがこの世を去って1500年以上経過した「末法」と呼ばれる現代では、阿弥陀さまのはたらきにおまかせして浄土に生まれる「浄土門」こそが、唯一の救われていく道だと示されました。


 ・万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

”善根を積む”というさまざまな修行をして、この世でさとりをひらこうとする「聖道自力」の道は、お釈迦さまが亡くなられて久しいこの末法の世界では難しく、それを達成することは不可能に近いことを、道綽禅師は明らかにされました。

そして、煩悩を滅することができず、死ぬまで罪をつくり続ける凡夫は、「南無阿弥陀佛」のお念仏をとなえて、阿弥陀さまのお浄土に生まれることを願う「浄土他力」の道をオススメされたのです。


 ・三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引

阿弥陀さまからいただく信心について、三つの良くない心持ちと、三つの良い心持ちがあります。

三つの良くない心持ちとは、純粋にお浄土に生まれることを願っておらず、その救いを疑っており、自力の思いが挟まっていて、救いを求める気持ちが続かない心持ちです。

一方、良い心持ちとは、飾り気のない気持ちでお浄土を想い、疑いなく阿弥陀さまの救いを信じ、自力の思いを挟まず、ただただ阿弥陀さまにおまかせして、救いを念ずる気持ちがなくならないという心持ちです。

曇鸞大師が示されたこの心持ちの教えを、道綽禅師はさらに深く大切に考え、阿弥陀さまの救いを疑いなく素直に受け取ることの大切さを教えられました。

お釈迦さまがこの世を去られてから500年以降に生まれ、迷いの世界に生きるすべてのものたちは、みな同じく阿弥陀さまのお浄土に生まれ救われていくことを願われました。


 ・一生造悪値弘誓 至安養証妙果

自力の修行もできず、一生涯にわたって罪を犯してしまうようなものであったとしても、阿弥陀さまの本願を疑いなく信じれば、その瞬間に阿弥陀さまのお浄土に生まれ、阿弥陀さまと同じさとりをひらくことができるのです。


 ・善導独明仏正意

『善導大師』は、「観無量寿経」の内容の解釈について、それまでスタンダードだった解釈は、間違っていると示されました。「観無量寿経」の内容には”表の意味”と、”裏の意味”があることを明らかにされ、その”裏の意味”こそが、お釈迦さまが本当に言いたかったことだ、と発表されたのです。

※「観経」の表向きの意味内容である「定散二善」と呼ばれる修行法は、実は、正しい教えへと導く方便(ウソの教え)であり、お釈迦さまが本当に伝えたかったのは、裏の意味である「南無阿弥陀佛」のお念仏だったのです。


 ・矜哀定散興逆悪 光明名号顕因縁

善導大師は「観経」が間違った解釈をされていることで、凡夫がお浄土に往生できる道がふさがれてしまうことを悲しまれました。

阿弥陀さまのお浄土に生まれるのは、自力の行を達成したからではなく、あくまでもその救いの光のはたらきによるものです。だから「観経」の救いは、修行のできるものも、大罪を犯してしまうものも、同じように、阿弥陀さまのお浄土に生まれることができる救いなのです。


 ・開入本願大智海 行者正受金剛心

まるで海のように広大な阿弥陀さまの救いの願いを信じたのなら、迷えるものたちであっても、阿弥陀さまのお心、金剛のように頑丈なそのはたらきを受け取ることができます。


 ・慶喜一念相應後 興韋提等獲三忍

  即証法性之常楽

阿弥陀さまの救いのはたらきを本当に疑いなく信じたのなら、その瞬間に、「観経」の内容そのままに、まるでお釈迦さまが生きておられた時の韋提希夫人と同じように、浄土に往生することが定まります。そしてこの世の命終わる時、お浄土に参って、さとりを得るのです。


 ・源信広開一代教 偏帰安養勧一切

『源信和尚』は、お釈迦さまが説かれた教え(お経)全てに精通されていました。その数え切れないほどのお釈迦さまの教えの中から、お浄土に往生する教え、すなわち阿弥陀さまの救いのはたらきである「南無阿弥陀佛」のお念仏の道を信じ、さらに、他の様々な人たちにも、このお念仏の道をオススメされました。


 ・専雑執心判浅深 報化二土正弁立

源信和尚は、阿弥陀さまのお念仏に備わったはたらきによって浄土に往生しようとする正しい修行を行うことを「専修」といい、その正しい修行以外の修行で、善根功徳を自力で積むものを、「雑修」と言いました。

この「専修」を行う人は、阿弥陀さまのはたらきである「他力」によるものなので”深い信心”とされ、「雑修」を行う人は、自分の積む功徳である「自力」によるものなので、これを”浅い信心”とされました。

このように、ひとくちにお浄土に生まれると言っても、その心持ちはふた通りあります。しかしこの心持ちの違いが、行き先を左右します。

真実のお浄土に生まれるのが専修、すなわち「他力」であり、仮のお浄土に生まれるのが雑修、すなわち「自力」となるのです。

このことを源信和尚は明らかにされたのです。


 ・極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中

  煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

大罪を犯してしまうようなものに、他の救われる道はありません。ただ「南無阿弥陀佛」のお念仏を称え、お浄土に生まれることを願うべきです。私たちの煩悩にまみれた視界では、阿弥陀さまの救いの光を見ることはできません。しかし、その「あなたを救う」というお慈悲のはたらきは、どんな時でも絶え間なく、私たちを照らしてくださっているのです。


 ・本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 

浄土真宗の祖師である『源空聖人』はお釈迦さまの説かれたすべての教えに精通しており、その中でもお念仏の道をご自身で選ばれました。

自分を誇る善人も、自己嫌悪に陥っている悪人も、みな、生まれ変わり死に変わりするこの生死の迷いの世界を、出ることができません。源空聖人はこれらのものをあわれんで、お念仏という救われていく道があることを、みなに勧められたのです。


 ・真宗教証興片州 選択本願弘悪世

法然聖人(源空聖人)は、浄土真宗の教え、すなわち、阿弥陀さまの本願である「南無阿弥陀佛」のお念仏のはたらきで、みなお浄土に生まれ、さとりを開かせていただくという教えを、末代濁悪と言われる現代にひろめられました。


 ・環来生死輪転家 決以疑情為所止

  速入寂静無為楽 必以信心為能入

私たちは「三界六道」と呼ばれる迷いの世界を、まるで車輪が回るように、クルクルと生まれては死に、死んでは生まれと永遠に繰り返しています。この迷いの世界を出ることができない原因は、自力でさとりをひらこうとしたり、真実の救いのはたらきを疑ったりしているためです。お浄土に生まれるには、必ず阿弥陀さまの救いのはたらきを疑うことなく受け取ることが必要なのです。


 ・弘経大士宗師等 拯済無辺極濁悪

  道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説

「大無量寿経」の真意をひろめられたインド・中国・日本の七高僧は、救われていくすべを持ち得ないものたちを哀れみ、すくいあげてくださります。

出家も在家も問わず、この七高僧の説を聞くものは、みな同じ気持ちで、その説を信じ、疑いなく阿弥陀さまの信心をいただくべきでしょう。

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