お正信偈の意味 ①

 

・帰命無量寿如来 南無不可思議光

「帰命」と「南無」は同じ意味です。「帰命」は「帰せよの命」であり、阿弥陀さまからの「喚び声」すなわち「必ず救う」の声です。教行信証(行巻)に「帰命は本願招喚の勅命なり」とあります。また「帰命」を「命に帰する」と読むと衆生の信心になります。素直にいただくということです。

「無量寿如来」と「不可思議光」も同じ意味で、阿弥陀如来さまの別名です。阿弥陀さまは、”限りない命と光”の仏です。また「如来」とは”真如より来生”するという意味で、「真実の世界から来たるもの」という意味で、すなわち仏のことです。

まとめますと、「阿弥陀さまの必ず救うとの呼び声を、素直にいただかせていただきます。」という意味です。


 ・法蔵菩薩因位時 在世自在王仏所

 阿弥陀如来さまがまだ仏になる以前、法蔵菩薩と呼ばれていた時、彼は世自在王という仏の弟子でした。


 ・覩見諸仏浄土因 国土人天之善悪

  建立無上殊勝願 超発希有大弘誓

  五劫思惟之摂受

 法蔵菩薩は師匠である世自在王仏に、様々な仏の国の、良いところ悪いところを見せてもらいました。その上で法蔵菩薩は、この上なく優れた仏の国を作りたいと願い、その国に「すべてのもの救いとる」という誓いを立てたのです。その願いと誓いは、いまだかつて他の仏がたが実現していない計画であり、法蔵菩薩は五劫という果てしなく長い時間をかけて、この計画を完成させました。


 ・重誓名聲聞十方 

 そして法蔵菩薩は言います。

「この計画を達成できなかった場合、わたしは仏にはなりません。

 また、智慧も能力も乏しくさとりをひらけないような弱いものを救えないようであれば、仏にはなりません。

 そして、「南無阿弥陀佛」という名号のはたらきをあらゆる世界に届け、そのものたちに「南無阿弥陀佛」を信じさせ、私の国に救いとることができなければ、仏にはなりません。

 これらのことを、私は誓います。」


 ・普放無量無邊光 無碍無對光炎王

  清浄歓喜智慧光 不断難思無稱光

  超日月光照塵刹 一切群生蒙光照

 そして、法蔵菩薩は計画を実現させるため、果てしなく長い時間をかけ修行をし、ついに阿弥陀如来となられます。阿弥陀さまは12種類のはたらきをそなえた光を放ちました。

その光は、過去、現在、未来を突き抜け、どんなに距離が離れていてもかすむことなく、どんなものをもってしても遮ることはできません。またその光は、光の中でも最高で、よろこびと智慧を与え、いつまでも絶えることなく、私たちが想像したり説明したりすることのできないものであって、太陽の光も、月の光も、この光の前では暗く感じてしまうほどのものです。

塵の数ほどあるありとあらゆるさまざまな世界は、この光に照らされています。この光によって、生きとし生けるものは、浄土に往生することができるのです。


 ・本願名号正定業

「南無阿弥陀佛」の名号は、阿弥陀如来がまだ法蔵菩薩だった頃、さまざまな仏の国を見て、考えに考え抜かれた末にたどり着いた「すべてのものを必ず救う」という究極の誓いであり、お浄土に往生するためのタネです。


 ・至心信楽願為因

すべての生きとし生けるものは、この「南無阿弥陀佛」すなわち阿弥陀さまの真のお心を疑いなく受け取ったその瞬間に、阿弥陀さまの浄土へ往生することが決まるのです。それを阿弥陀さまからいただく「信心」と呼び、それは四十八願の中の第十八願によるものです。

 

 ・成等覚証大涅槃 必至滅度願成就

この「信心」を阿弥陀さまから受け取ったその瞬間に、等正覚(とうしょうがく)という菩薩の位に定まります。(等正覚というのは、生まれ変わった次の世界で必ず仏のさとりを得ることが決まっている立場をあらわします。)そしてこの世の命終わる時には阿弥陀さまの浄土に往生し、さとりを開くのです。

このはたらきは、四十八願の中の第十一願によるものです。

 

 ・如来所以興出世 唯説弥陀本願海

  五濁悪時群生海 應信如来如実言

お釈迦さまをはじめ、さまざまな世界の仏さまが現れたのは、自力聖道の道を示すためではありません。ただ阿弥陀さまの救いの法、すなわち「南無阿弥陀佛」のはたらきを私たちに教えるために現れたのです。

煩悩などのさまざまな穢れ(けがれ)にさらされている現代の生きとし生けるもの達は、自力聖道の道は歩めません。阿弥陀さまのはたらきだけが、このものたちを救いとるのです。この迷いの世界に生きるものたちは「必ず救う」という阿弥陀さまの声に従い、それを素直に受け取りなさいよと、お釈迦さまは言われました。


 ・能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

「南無阿弥陀佛」のはたらき、すなわち阿弥陀さまの信心を受け取るとき、それを疑いなく受け取れば、その瞬間に仏さまのお慈悲のあたたかさに包まれ、喜びの心がおきます。死ぬまで煩悩を断つことのできない凡夫であっても、その心にさせていただいたのなら、煩悩は阿弥陀さまのはたらきが絶ってくださり、そのままさとりをひらかされるのです。


 ・凡聖逆謗斉廻入 如衆水入海一味

煩悩多く智慧も浅い平凡なものも、仏道修行ができる聖者も、殺人などを犯してしまったり、仏法をバカにするような罪人も、そのすべてのものはその凝り固まった心をひらき、阿弥陀さまのはたらきに包まれれば、みな同じように合流しながら浄土に入っていくのです。それは例えるなら、一本いっぽんの別々の川が流れていようと、それぞれ次第に海に向かい、最終的に同じ海の水となり、同じ塩味がするのと同じことなのです。


 ・摂取心光常照護 已能雖破無明闇

  貧愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天

  譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇

阿弥陀さまの光には、「一度救いあげたら、その後見捨てることが無い」というはたらきがあります。阿弥陀さまの信心のはたらきを受け取ったものは、常に光がとどき、なにものにも遮られず照らされているのです。この光のはたらきに触れたとたん、煩悩から起こる暗い迷いや疑いのこころは破られるのです。

そうは言っても、私たちの欲や怒り、迷いや疑いの心は、まるで分厚い雲のように、空から降り注ぐ阿弥陀さまの救いの光を覆い隠しています。

しかし例えば、太陽の光が雲で覆われていたとしても、そこに夜のような闇はなく、明るさが届いています。すなわち私たちの心はどうしても迷ったり疑ったりしてしまうものですが、そこに阿弥陀さまの救いのはたらきが届いていることは、疑いようの無いことなのです。


 ・獲信見敬大慶喜 即横超截五悪趣

阿弥陀さまの信心を素直に受け取らせていただき、仏さまのあたたかいお慈悲のこころに触れて喜べば、その瞬間に、迷いの世界から解き放たれるのです。私たちは地獄、餓鬼、畜生、人間、天上という5つ(修羅を含め6つともする)の迷いの世界をクルクルと迷っていますが、阿弥陀さまの信心を受け取ったのなら、そのはたらきによって、このループから解放されるのです。


 ・一切善悪凡夫人 聞信如来弘誓願

  仏言広大勝解者 是人名分陀利華

どんなものでも、たとえそれが罪を犯さずにはおれないものであったとしても、阿弥陀さまの「必ず救う」との願い、誓い、すなわち「南無阿弥陀佛」を受け取れば、お釈迦さまはこの者を、「優れた智慧をえた者(阿弥陀さまの浄土に生まれることが決まった者)」、と褒め称えられました。

また、煩悩を抱えながらも、その中からきよらかな信心が生まれることを、泥の中から咲く真っ白な蓮華の花にたとえられたのです。


 ・弥陀仏本願念仏 邪見憍慢悪衆生

  信楽受持甚以難 難中之難無過斯

しかし、自分の知識に酔ったり、自分は立派だと思い込み、間違った認識で仏法を踏みにじるような者にとって、阿弥陀さまのはたらきである「南無阿弥陀佛」を素直に疑うことなく信じることは、不可能に近いのです。はやくその”はからいの心”から離れ、阿弥陀さまの「救われてくれ」という声に、従うべきであります。


                ▶︎続きは「正信偈の意味 ②」

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