源空聖人(法然聖人)

 

 ・親鸞聖人の師匠、源空聖人(法然聖人)


 源空聖人は長承(ちょうしょう)二年(1133ねん)、美作国久米南条の稲岡庄(現在の岡山県久米南町北庄)に生まれました。父親は漆間時国(うるまのときくに)、当時の中国地方の豪族で、久米の押領使(現在でいう警察官)であったそうです。母親は同じく久米の豪族、秦氏の出身だったそうです。

幼い時は勢至丸(せいしまる)と呼ばれていました。

勢至丸9歳の春、父が真夜中の不意打ち(一説には毒矢)によって殺害されます。

この時、父から

復讐はするな、復讐はまたさらなる復讐を呼ぶ。決して犯人を恨むな。父を思うならば、仏法を求めてくれ。

という遺言を残されます。

この遺言に従い敵討ちを断念した勢至丸は、菩提寺であった勧覚(かんがく)のもとで勉強を始めます。

 勢至丸13歳の時、彼のただならぬ才能を見出した勧覚は、自分のもとに置いておくのはもったいないと、比叡山に預けられました。

当時の最高学府であった比叡山で、源光(げんこう)に師事します。しかし2年後、源光は”自分はこれ以上教えることがない”として、勢至丸は、同じく比叡山の皇円(こうえん)のもと、15歳で得度されます。さらにその3年後、18歳の時には地位や名誉を捨てて、念仏者が集まると言われる比叡山黒谷別所に移り、叡空(えいくう)に師事し、そこで「法然房」という房号と、師である源光と叡空の名前から一字ずつとり、「源空」という名前を授かります。

 その後はしばらく叡空のもとで学び、24歳のときに比叡山から一時的に下山されます。出離の道(救われていく道)を求めて、有名と聞く学僧を何人も訪ねて回りますが、納得のいく回答は得られず、また比叡山に戻られるのです。

比叡山に戻ると源空聖人はお経の蔵にこもって、一切経(大蔵経)を5度にわたり読み込まれます。


43歳の頃、善導大師の

一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり」「観経疏(散善義)

の文がストンと聖人の中に落ち、ついに浄土門の専修念仏にたどり着かれます。他力救済の真意に到達されたのです。


  『「ご本願」ただ一つを選ばれた法然聖人』


その後、黒谷を出られた聖人は、京都西山の広谷(ひろたに)で法友とともに2年ほど過ごされたそうですが、その友が病気で亡くなり、東山大谷(吉水)にうつり、そこで「浄土宗」を名乗りお念仏を弘めます。

専修念仏の人気は凄まじく、瞬く間に民衆にひろまります。しかしこの盛り上がりに対し、聖人の一門を弾圧する動きが延暦寺で起こり始め、「専修念仏」の停止を訴えるのです。

これに対し聖人はすぐに「七箇条の制誡」をつくり、門弟189名の署名とともに天台座主に提出し、専修念仏の立場を説明します。


七箇条制誡(しちかじょうせいかい)

 ①天台・真言の教説を破し諸仏菩薩をそしらぬこと

 ②無智の身で有智の人と諍論(じょうろん)せぬこと

 ③別解(べつげ)、別行(べつぎょう)の人に対し本業(ほんごう)を棄置し嫌わぬこと

 ④念仏門には戒行がなく造悪を恐れないなどと主張せぬこと

 ⑤ことごとに私義をとなえないこと

 ⑥痴鈍(ちどん)の身をもって道俗を教化(きょうけ)しないこと

 ⑦仏法にあらざる邪法をといて正法とせぬこと


しかしそれもむなしく、後に朝廷から専修念仏の停止が命じられました。これを承元の法難(じょうげんのほうなん)といいます。源空聖人75歳のときです。


源空聖人はその後、僧籍を剥奪され、讃岐へ流罪となります。同年、早くも流罪は取り消されますが、京都へ帰ることは許されず、80歳で往生されました。

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