善導大師

 

 ・多才なカリスマ、善導大師


 隋(ずい)の時代の後半、大業九年(613年)に、善導大師は生まれます。生まれた地域に2説あって、山東省(さんとうしょう)の臨淄(りんし)あるいは、安徽省(あんきしょう)の泗水(しすい)のどちらかの生まれとされています。


幼くして出家した善導大師は、まず「法華経」や「維摩経」などを研究していたのですが、

「末法の時代(お釈迦様が入滅して1500年、この世でさとりを開くことができない時代)には、これらの経を極めても意味をなさない」

と考え、当時、「お念仏によってお浄土に生まれ、そこでさとりを開く」という”浄土教”を広く説いていた、道綽禅師に弟子入りし、門下に入ります。



 道綽禅師の門下に入った善導大師は、「観経」を教え込まれます。善導大師はとても厳格な方だったようで、寝床を持たず、肌を露わにせず、目を上げて女性を見ないなど、一切、欲望にとらわれることがなかったと伝えられています。

貞観(じょうがん)十九年(645年)、善導大師が33歳の頃、道綽禅師は84歳で往生されます。

道綽禅師が亡くなられる前後で、善導大師は唐の都、長安(ちょうあん)に向かい、もといた終南山(しゅうなんざん)に戻られます。

その後、終南山からたびたび長安に出向いて、教化活動をされるのですが、ここからが凄いのです。

 長安の光明寺を教化活動の拠点として、多くの大衆に向けて、お念仏の教えをひろめます。その勢いは凄まじく、相当なカリスマ性を放っていたようで、長安中にお念仏が満ちるほどであり、また彼の「観経変相図(極楽浄土の世界を描いてあり、十六観相などを解説した図)」の説法をきいて、「捨身往生」(飛び降り自殺)する者も現れるほどだったそうです。


 善導大師は、厳格な僧侶としてお念仏をひろめる一方で、大仏を造る事業に関わったり、寺院の修復に携わるなど、芸術・建築などの分野でも多才に活躍された方でした。

善導大師は永隆二年(681年)に69歳で往生されたと伝えられています。

スポンサード リンク