道綽禅師の発揮「聖浄二門判」


 道綽禅師の示された「聖浄二門判(しょうじょうにもんはん)」とは、自力難行道を「聖道門(しょうどうもん)」、他力易行道を「浄土門」とし、

「聖道門」によってさとりを開くことは極めて難しく、阿弥陀さまの救いのはたらきである本願によってお浄土に生まれる「浄土門」の道こそが、私たち凡夫に唯一開かれた道であると言うことを主張したものです。


 【聖道門】…自力で様々な難行を果てしなく行い、現世で仏のさとりを求める道。

 【浄土門】…阿弥陀さまの救いのはたらきであるご本願によってお浄土に生まれ、そこで仏のさとりを開く道。




 准通立別(じゅんつうりゅうべつ)


道綽禅師の教学は、自力の「聖道門」の教えを徹底的に批判・否定するのではなく、あくまで尊重しつつも、他力の「浄土門」の教えを確立していくという特徴を持っています。

これは当時の仏教の主流が「聖道門」であったため、「浄土門」の思想は、周りから様々な批判や偏見にさらされていたのでしょう。そこで道綽禅師は、仏教の一般的な立場に立ちながらも、柔らかく「聖道門」の思想を批判しつつ、「浄土門」の真意、お念仏の真髄を強調されたのです。

こういった道綽禅師の態度を「准通立別(じゅんつうりゅうべつ)」というのですが、『安楽集』においてもこの意識はあらわれており、質問をもうけ、それに対する答えとして、主張を示すということを繰り返しています。これは当時あった、「聖道門」の立場からの批判に対する反論であったと思われます。



 「問ひていわく、一切衆生みな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。なにによりてかいまに至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる。」(『安楽集』巻上 註釈版七祖 p241)

 (一切衆生には、みな仏性があり、久遠劫よりこのかた多くの仏にお値いしているはずなのに、いまだに迷い続けているのはなぜでしょうか?)


という問いをもうけ、道綽禅師は、


「まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。」(同上)

(生死を出るのに、聖道門と浄土門の二種の勝法によらないからです。)


と答えるのです。

ここで、自力の「聖道門」と他力の「浄土門」を並べて出しつつ、この後つづけて「聖道門」の仏道を完成させることは不可能に近いという説明をされるのです。




 ・二由一証(にゆいっしょう)


道綽禅師は「浄土門」をすすめる理由を二つ示し、さらにその理由の証拠を一つ示されます。それを「二由一証(にゆいっしょう)」と言います。

 

【自力聖道門】…「聖人がさとり(証果)に向かって修する道」という意味。つまり定散二善(じょうさんにぜん)と呼ばれる様々な自力の行をおこない、この世でさとりを開く道。


しかし…

  《一つ目の理由》 

 「大聖を去ること遥遠なるに由る」(『安楽集』巻上 註釈版七祖 p241) 

…今ではお釈迦さまがこの世を去られてかなりの年月を経てしまい、お釈迦さまに直接指導してもらえないどころか、その影響力の弱まった末法という時代です。


  《二つ目の理由》 

 「理は深く、解は微なるに由る」(同上)

…さらに、お釈迦さまの教えは非常に深く難解で、聖者でない今の私たちには理解することはほとんどできないでしょう。私たちは聖者ではなく、凡夫なのですから。


  《その証拠》

 「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起こし道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」(同上)

…そして、この末法の世で、実際に修行をして仏のさとりをひらいた者は、一人としていないのです。



 

 ・まとめると


「聖道門」という仏道は、仏のさとりを得る一つの方法としては成り立っているのですが、末法の世である現在には適していない道と言わねばなりません。

この「聖道門」では、生まれ変わり死に変わりを繰り返している私たちの生死(しょうじ)の問題は解決することが、極めて難しい、ということを明かしたのが、この「聖浄二門判」です。

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