道綽禅師


・曇鸞大師のメッセージに打たれた道綽禅師


 よく誤解されているのですが、道綽禅師の禅師というのは、「禅宗の人」という意味合いではなく、「実践」の人という意味です。

 道綽禅師は、曇鸞大師がこの世を去り、20年後の中国に誕生されました。北斉(ほくせい)の武成帝(ぶせいてい)の河清(かせい)元年(562年)に倂州(へいしゅう)の汶水(ぶんすい)という場所で生まれました。

 道綽禅師が生まれた12年後、当時中国で北周の武帝の法難が起こり、仏教・道教の大規模な廃止政策が行われ、僧侶・道士200万人以上が還俗(僧侶や道士の資格を剥奪すること)させられ、迫害を受けます。当時の末法思想も重なり、仏教に対してネガティブな時代でした。


 道綽禅師は北斉にて14歳で出家されたのですが、その3年後、北斉は北周に敗れ、先ほど言った北周の法難が道綽禅師の修行している地域にも及びます。北周から隋(ずい)へ政権交替され、仏教が復興されるまでの3年間、北周の仏教の廃止政策は続き、その間、道綽禅師は身を隠していたのではないかと言われています。

 政権交替ののち仏教復興政策が行われ、ようやく学問や修行に集中できるようになった道綽禅師は「涅槃経(ねはんぎょう)」の研究に力を注ぎました。道綽禅師は学問の知識は深く、さらに温厚な人柄で礼儀正しかったそうで、多くの人に慕われたそうです。


その後、道綽禅師は慧瓚(えさん)禅師という方が主催している、戒律(教団のきまり)と禅定(座禅や瞑想の修行)に重きをおく教団に参加されます。これは道綽禅師が、仏教を学問研究の理論的な視点からだけでなく、より実践的な視点から理解したいと考えられたからでしょう。ここでの実践的な立場への転換が、”禅師”(実践の人)という呼び方につながったと言われています。

道綽禅師は48歳の時、たまたま立ち寄った曇鸞大師のかつて住んでいた玄中寺で、石碑に書かれていた曇鸞大師のメッセージに出会います。仙経を焼き捨て、浄土教に入った曇鸞大師に衝撃を受けた道綽禅師は、それまで所属していた涅槃宗から浄土の他力の教えに入ります。

お釈迦様が入滅されて1500年経つ今の末法の世界で、正しいさとりは完成できるのだろうか…私も聖道自力の道ではなく、浄土の他力の教え、阿弥陀さまの本願のはたらきを信じよう。

そう決意した道綽禅師は、その石碑のあった玄中寺に移り住まれ、「観経」をとことん研究されました。

道綽禅師は84歳で入滅されるまで玄中寺に住まわれ、浄土の教え=お念仏に生きられました。

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