曇鸞大師の発揮「顕示他力」について


仏教は「仏のさとり」を目指す教えです。 ”さとり”の目指し方に、古くから様々な道がありました。

その中、浄土真宗は「阿弥陀如来さまの本願力(救いのはたらき)によって、阿弥陀さまのお浄土に生まれ、そこで仏のさとりをひらかせていただき、さらに、さとりを得たものは迷いの世界に戻ってきて、他を教化する」という道です。


曇鸞大師は、仏のさとりに向かう方法に、「自力」でいく道(自分の積み重ねる修行)と、「他力」でいく道(仏さまの本願力に乗る)とがあると示されました。これを「顕示他力(けんじたりき)」と言って、浄土教に対する曇鸞大師の解釈であり、独自の切り口、特徴です。


これは龍樹菩薩の


  仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行(しんほうべんいぎょう)をもって疾く阿惟越致に至るものあり。(『十住毘婆沙論』 易行品 註釈版七祖編5p)

《現代語訳》…(仏法には数え切れないほどの ”仏のさとりに至る道” が存在します。 陸を自分の足で果てしなく歩くことは苦しいことですが、海や川を渡るのに、船に乗って移動することは楽しいことでしょう。 菩薩の修行もこれと同じです。 修行を勤め、果てしなく精進する道もあれば、”信心” を乗り物として、「歓喜地」に到達する道もあるのです。)


というご文をさらに深く突き詰めたものです。


曇鸞大師は、龍樹菩薩のこの精神を引き継ぎ、「難しい修行の道(難行道)」を「自力の道」、また「易しいお念佛の道」を「他力の道」と表現されました。


 【難行道(なんぎょうどう)】=【自力】

 【易行道(いぎょうどう)】 =【他力】


ではなぜこのような表現をされたのでしょう?


曇鸞大師は、著作『往生論註』の初めに、

「難行道はなぜ”自力”とされ、”難しい道”と言われるのか?」ということと、

「易行道はなぜ”他力”とされ、”易しい道”と言えるのか?」ということを、5つの理由で示されています。




 ・難行の理由 



『往生論註』巻上 (註釈版七祖 p47)


 ① 「外道の相善(しょうぜん)は菩薩の法を乱る」

  …仏教にまぎらわしい外道の善が、菩薩のさとりに向かう修行法を乱すから、難しいのです。


 ② 「声聞は自利にして大慈悲を障(さ)ふ」

  …「声聞(しょうもん)」とは自己のさとりのみを求め修行する菩薩のことです。菩薩というのは、自身が修行者でありながらも、他のものも同時に救おうという「大慈悲」を行うものです。 自己のさとりの完成だけを求める声聞の修行法が、この「大慈悲」を行うことを妨げるので、難しいのです。


 ③ 「無顧(むこ)の悪人は他の勝徳を破る」

  …人のことをかえりみない(自らを反省しない)ような悪人は、他の功徳を傷つけ、破壊するため、難しいのです。


 ④ 「顚倒の善果はよく梵行を壊(こぼ)つ」

  …六道の迷いの世界の中では良い果報であるとされる「人間」と「天人」の世界に執着し、仏道の修行をそこなってしまうため、難しいのです。


 ⑤ 「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」

  …自力の修行ばかりに心が向いてしまい、仏さまや、菩薩がたの偉大なはたらきに、おまかせすることができないのです。



以上、5つの理由から、「自力」である「難行道」は難しいとされるのです。




  ・易行の理由


では最後に、曇鸞大師が示す「他力」という道が、なぜ「易しい道」であるのかを見ていきましょう。



 「易行道とは、いはく、ただ信佛の因縁(仏、あるいは仏の因縁を信ずること)をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、佛力住持して(本願力により)すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致(あびばっち)なり」  (『往生論註』巻上 註釈版七祖 p47)


 …「易行道」というのは阿弥陀さまの救いのはたらきである本願力におまかせして、お浄土へ生まれることを願えば、阿弥陀さまの弘誓の船に乗せられ(自分で乗り込むのではない!)、お浄土に生まれ、本願力によって、仏のさとりを得ることが定まる身になるのです。


ということはつまり、

相対の世界にいて、有限の命を生きる私たち凡夫が称えるお念佛は、絶対の真理の世界におられる、無限の命である阿弥陀さまのはたらき、すなわち「他力」なのだ、ということです。


阿弥陀さまのはたらきである「他力」におまかせし、難行と呼ばれる修行を行う必要がないから「易しい道」=「易行道」と言われるのです。

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