「十住毘婆沙論」(易行品)



 龍樹菩薩の著作であるこの「十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)」は全部で17巻確認されています。

この著作は何を説いた書物かというと、菩薩が仏となるまでの道のりの要点を、35のセクション(三十五品)にわたって詳しく解説した書物といえます。

その35のセクション中の一つ、易行品(いぎょうぼん)という部分において、浄土真宗にとってとても重要なことが書かれているため、真宗ではこれを聖教として定めています。

毘婆沙(びばしゃ)とは、”詳しく説明すること”(広説)という意味です。



 ・十住とは何か?


 では、題名にある「十住(じゅうじゅう)」とは何かというと、菩薩が仏になるための道のりの、ある部分を指し示す言葉です。

菩薩(修行者)が仏のさとりに至るまでは、それこそ果てしなく大変な修行を修め、果てしなく長い時間を要します。それは人間が想像出来る範囲を超えたものです。

その菩薩の修行の過程に、52段階あるとされていて、これを「菩薩五十二位」と言います。

最後の52段階目が”仏のさとり”、すなわち、”菩薩の修行のゴール” に当たります。これを「妙覚(みょうがく)」と言います。

このうち、11段階目〜20段階目の範囲のことを「十住(じゅうじゅう)」と呼びます。

なぜこの11〜20段階目に焦点を当てるのかというと、その最初の11段階目が、この52段階の中でも特に重要だからです。



 ・「歓喜地(かんぎじ)」という段階の重要さ


 菩薩の修行の52段階中、11段階目を「歓喜地」と言います。先ほど説明した「十住」のうちの最初の段階ということで、「初地(しょじ)」とも言います。

修行中の菩薩は、1段階目からこの11段階まで到達することができると、そこから迷いの世界に戻ることがなくなります。

 また、この段階まで到達すると、仏のさとりをひらくことを約束され、さらに、この11段階目から位が下がることはなくなるのです。この状態になるとその菩薩は歓喜するので、「歓喜地」と呼ばれます。

 この「歓喜地」になると、修行の段階的に、後退することがなくなるので、「不退転地」と言ったり、また、さとりをひらく身に定まるので「必定(ひつじょう)」と言ったりもします。 

ですから、菩薩の修行を進めるものは、まずこの「歓喜地」が、最初の辿り着くべき目標となるわけです。いわば”第一関門”といった感じです。



 ・難易二道判


 菩薩の修行者は、まずこの最初の目標である「歓喜地」を目指すのですが、その道は果てしなく険しく厳しいものです。

そこで龍樹菩薩は問いを立てます。


「菩薩がこの歓喜地(初地)に辿り着くには、様々な厳しい修行(諸行)を、果てしなく長いあいだ(久)精進する必要があります。 しかもその間に、他のものを救おうとせず、自分だけさとりをひらこうとする声聞(しょうもん)や縁覚(えんがく)という状態に堕落(堕)する恐れもあります。  このような大変なリスク(諸・久・堕の三難)のない、やさしい方法はないのでしょうか?」


その問いに対し、

「そうした問いかけは、意志が弱い怠け者のいう言葉です。真面目に仏道を志す者が、そのようなことを言うべきではありません。 しかし…どうしてもそれが聞きたいのであれば、方法がないわけではありません。

と答え、次のように答えます。


 仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行(しんほうべんいぎょう)をもって疾く阿惟越致に至るものあり。(『十住毘婆沙論』 易行品 註釈版七祖編5p)

《現代語訳》…(仏法には数え切れないほどの ”仏のさとりに至る道” が存在します。 陸を自分の足で果てしなく歩くことは苦しいことですが、海や川を渡るのに、船に乗って移動することは楽しいことでしょう。 菩薩の修行もこれと同じです。 修行を勤め、果てしなく精進する道もあれば、”信心” を乗り物として、「歓喜地」に到達する道もあるのです。)



 このように、龍樹菩薩は歓喜地に到達する方法には、難しく厳しい修行(普通の人ができない行)以外にも、「信心」を道筋とする「信方便易行(しんほうべんいぎょう)」という方法があることを明かされるのです。

つまり、歓喜地(不退の位)に到達する方法に、難しい道(難)とやさしい道(易)があるとし、これを「難易二道判(なんいにどうはん)」と言います。

また、「やさしい方法を問うものは、意志の弱い怠け者だ」と最初にきびしくいうのは、実はこの「やさしい行」を選ぶ上で気をつけなければならないことを指摘しているのです。すなわち、「自分は難しい行もできる」という自惚れた心持ちが少しでもあるようでは、この「やさしい行」はできない、つまり、自分自身が「愚かで意志の弱い怠け者だ」という自覚がなければ、この「やさしい行」は効き目がないからです。

これは、阿弥陀さまの救いのはたらきを、自分でつかもうとせず、阿弥陀さまを疑うことなくすべておまかせするという意味合いと重なります。すなわち他力の信心のありようを表しています。



 ・「信方便の易行」=「南無阿弥陀佛」


龍樹菩薩はこのように、問いと答えを設けて、「信方便の易行」という方法を明かされました。

では、具体的にそれはどういうものかというと、

まず、十方(東・南・西・北・東南・西南・西北・東北・下・上)におられる仏(阿弥陀如来さま以外)の名前を称えることによって、仏のさとりをえることが定まる位である不退転の位(歓喜地)に到達するという行を説きます。


しかしその後、龍樹菩薩はまた問いを設けます。


「この十仏の名を称えて、不退転の位(歓喜地)に至ることができることはわかりました。では、この十仏以外の、その他の仏や菩薩の名を称えて、同じくらいに到達することはできますか?」


この問いに対し、


「阿弥陀仏などの諸菩薩を敬い礼拝をして、その名(名号)を称えることによっても、不退転の位(歓喜地)に到達することはできますよ。」


という答えが返ってくるのです。

阿弥陀さまの名を称えること、つまり「南無阿弥陀佛」のお名号ということです。


これはどういうことでしょうか。

龍樹菩薩はこの「易行品」において、十方の諸仏の名号を称えることが言いたいのか、阿弥陀仏の名号を称えることが言いたいのか迷います。

しかし、十方におられる十の仏さまで充分であるなら、「阿弥陀仏」の名前は出す必要がないはずですし、他にたくさんの仏さまを紹介するわけでもなく、「阿弥陀さま」だけをピンポイントで登場させるのです。

もともとは十方におられる十仏を紹介したのだから、十仏の方をメインで説いているようにも見えます。阿弥陀さまの解説部分をとってつけたように見えるかもしれません。

そこで、この『十住毘婆沙論(易行品)』の中で、この両者の扱いの違いに注目してみると、6点の違いが明らかになります。


 【『易行品』における”諸仏”と”阿弥陀仏”の6つの違い】


  ● 十方の諸仏(十仏)をまとめて褒め称えるのに対し、阿弥陀仏の場合、阿弥陀仏(一仏)だけを褒め称えている。

  ● 十方の諸仏(十仏)を褒め称える詩の数は少なく、内容も簡潔。それに対し阿弥陀仏を褒め称える詩は量も多く、内容も細かく詳しい。

  ● 阿弥陀仏には

「阿弥陀仏の本願はかくのごとし。『もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得』と。このゆゑにつねに憶念すべし。」

と、”称名を誓った本願” があるのに対し、諸仏にはない。

  ● 諸仏の名号を称えると、不退の位になるのみに対し、阿弥陀仏の名号を称えると、浄土への往生も利益としてある。

  ● 阿弥陀仏を褒め称える部分では、龍樹菩薩自身が「このゆえにわれ(阿弥陀仏を)常に念ず」と言っているのに対し、諸仏の部分ではこのような言葉はない。

  ● 阿弥陀仏の部分では、他のものもみな阿弥陀仏の利益を得ることを願っているが、諸仏の部分ではそのような言葉はない。


以上、6点の違いを挙げてみますと、龍樹菩薩がこの「十住毘婆沙論(易行品)」で言いたかったことは、

「阿弥陀仏の名号を称え、不退の位、そして浄土への往生の利益も得て欲しい」

という、他のものへのメッセージであったと受け取れるのです。

「阿弥陀仏の名号を称える」とは、言うまでもなく「南無阿弥陀佛のお念仏」です。



 ・まとめ


もう一度、「信方便易行」ということについて考えてみますと、「信心を内容とする称名」ということになります。

その信心というものは紛れもなく阿弥陀さまの救いのはたらきであります。

なぜ「易行」、つまり「易しい行」である念仏で、本来なら果てしない修行と果てしなく長い時間を要する”不退の位”に到達し、浄土へ往生まですることができるのか。

それは、すべて、阿弥陀さまがご用意してくださった救いのはたらきであり、私たちの努力や能力は、「往生」に関しては、全く必要ないということであります。


この「十住毘婆沙論」はこのように、はてなく迷い苦しみ生まれ死にを繰り返す愚かな私たち凡夫を救うために、龍樹菩薩がご用意くださった書物であります。

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