「易行品」と「本願」の関係


 龍樹菩薩の著書『十住毘婆沙論 易行品』の中の一節と、『大経 第十八願・第十八願成就文』が、密接にリンクしている部分があります。

そのリンクしている部分に注目することで、「阿弥陀さまの信心によってお浄土への生まれることができ、お念仏とは、そのご恩に対しての感謝である」(信心正因・称名報恩)ということがわかります。



まず『易行品』の弥陀章に


  阿弥陀仏の本願はかくのごとし。「もし人、われを念じ、名を称しておのずから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。   (註釈版七祖 p15)


そして『大経』第十八願

  たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 (註釈版 p18)


この2つを照らし合わせると、


 阿弥陀仏の本願はかくのごとし。

「もし人十方の衆生

われを念じ(至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて

名を称して(乃至十念せん

おのずから帰すれば、(至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。

すなはち必定に入りて(即得往生

阿耨多羅三藐三菩提を得(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」


となります。



次は『易行品』のこちらのご文です。


 人よくこの仏の無量力威徳を念ずれば、即時に必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。  (『易行品』弥陀章 註釈版七祖 p16)


そして本願成就文

  

 あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に廻向したまへり。かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗するものとをば除く  (『大経』巻下 本願成就文 註釈版 p41)


この2つを照らし合わせると、


「人(あらゆる衆生

よくこの仏の無量力威徳(その名号

を念ずれば(信心歓喜)…すなわち信心が往生の因

即時に必定に入る(すなはち往生を得、不退転に住せん)。

このゆゑにわれつねに念じたてまつる。」


となります。




照らし合わせたものを、さらに照らし合わせると、


われを念じ(至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて)=人(あらゆる衆生)よくこの仏の無量力威徳(その名号)を念ずれば(信心歓喜

=すべての迷える衆生は南無阿弥陀佛のお名号、つまり阿弥陀様の救いのはたらきである”信心”を疑いなく受け取ることで、お浄土への往生が定まる。


となり、阿弥陀さまの”信心”が、往生の正しい”タネ”となることがわかります。これを「信心正因」と言います。


さらに、もう1つの方を見ますと、


名を称して(乃至十念せん)=このゆゑにわれつねに念じたてまつる。

=お浄土へ生まれさせていただく身に仕上げてくださった阿弥陀さまへのご恩に感謝し、お念仏を申す。


つまり、私の口で称えるお念仏は、往生の因(タネ)ではなく、あくまでも「感謝のお念仏」であるとされます。これを「称名報恩」と言います。




親鸞聖人は『正信偈』に、


 ・憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

  唯能常称如来号 應報大悲弘誓恩

阿弥陀さまの救いのはたらきを、そのままいただけば、その瞬間にお浄土に生まれることが決まり、必ず仏のさとりを得る身にさせていただくのです。私たちの知識や経験を問わず、ただ阿弥陀さまのはたらきによって救われるのです(信心正因)。この阿弥陀さまのお慈悲のこころに、ただただ感謝し、お念仏を申させていただくべきでしょう(称名報恩)。


と、示されております。


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