「有無見」について


 龍樹菩薩の代表的な功績のひとつとして「有無見(うむけん)の摧破(さいは)」と言われるものがあります。


龍樹菩薩の著書『中論』4巻と、『十二門論』1巻は、「有無見を打ち破り、中道を示す書」と言われています。


「有無見」というのは、ざっくり言うと「偏った思想」という意味合いです。

龍樹菩薩の生きておられた時代には、仏教以外の誤った偏った見解や異教が、たくさんありました。それを「六十二見」や、「九十五種の外道」などというのですが、当時、これらの論争が絶えなかったと言われています。

これらの「偏った思想」には大きく分けて、2つのパターンがありました。それが、「有見(うけん)」と「無見(むけん)」です。


 【有見】…人は死んだ後、生まれ変わりがあり、永遠になくならない「我」を持っているとして、仏法を遠ざけるもの。「常有見」ともいう。

 【無見】…人は死んだら全てが無になる、つまり何もなくなるとして、仏法を遠ざけるもの。「断無見」ともいう。


例えば、人が死んだら魂や霊となって存在するというのは「有見」です。また、人が死んだら何にもなくなってしまって、無に帰するというのは「無見」です。

どちらも人間の「思い込み」が大きく関わっていて、これにとらわれすぎると不安になります。

今でも「恐怖の心霊スポット」や「ゾッとする心霊写真」などの番組が組まれているのはこの「有見」による思い込みの恐怖を利用した企画でしょうし、死んだらその先は真っ暗闇…死ぬのが怖い、死は暗くて恐ろしいもの、というのは「無見」の思い込みからくる不安であると言えます。

しかしこのような「恐怖心」は、私たちの「思い込みの心」が生み出したものにすぎません。本当に実在するのか、しないのかということ、つまり「事実」とは結びつかないのです。


このことについて

「そんな”有る”とか”無い”とか、自分勝手に思い込んだり、こだわったりすることから、まずは離れてみなさい。」

と言われたのが、龍樹菩薩です。


私たち人間は仏教でいうと「凡夫(ぼんぶ)」という愚かな存在です。

凡夫である私たちは悲しいことに「煩悩」を抱えています。この煩悩があることで、浅はかな知恵と、限られた経験の中で、物事を認識し、解釈してしまいます。そして、自分の都合のいいように思い込み、間違った判断をすることがほとんどです。

龍樹菩薩は、凡夫のこのような性質を持っているので、有見や無見のような偏った思い込み・こだわりの心から離れることを説かれたのです。

これを「有無見(うむけん)の摧破(さいは)」と言います。


これについて親鸞聖人は「正信偈」に


 ・ 為衆告命南天竺 龍樹大士出於世 悉能摧破有無見

「南インドに優れた僧侶が現れるでしょう。その者の名前は”龍樹菩薩”という。このものは、世の中の間違った見解を正し、皆が救われていく道を弘めるでしょう。」


と示されています。


物事には必ず「原因」と「結果」が存在します。タネとなるものがあって、結果・事実として表れます。

仏教ではこのことを「因果」とか「縁起」と言いますが、「有見・無見」という思想は、これらの反対です。


物事はすべて互いに影響しあい、作用しあい存在していますし、いくらでも結果は変わります。つまり、「有見・無見」のように根拠のない思い込みからくる偏った思想は誤っており、これにこだわっていてはならない、と言われるのです。


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