龍樹菩薩が「十住毘婆沙論」を制作した理由



 浄土真宗では、龍樹菩薩の著作「十住毘婆沙論」の中の「易行品(いぎょうぼん)」というセクションを、拠り所とする書物、すなわち「聖教」として定めています。


そこには、全部で52段階ある菩薩の修行において、非常に重要な「歓喜地(初地)」に到達する手段について、「難しい道」と「易しい道」があることが説いています。


「歓喜地」とは、52段階ある菩薩の修行段階の中で、11番目の段階のことを指し、この段階まで到達することができれば、前の修行段階に下がることもなくなり、また修行のゴールである”仏のさとり”を得ることが定まる段階です。

菩薩の修行者は、まずこの「歓喜地(初地)」を目標として精進します。そこに到達する手段に、「難しい道」と「易しい道」があるとされたのです。つまり菩薩の道に「苦しい道」と「楽しい道」があるということになります。


まず、「難しい道」とは、人間の想像を超えた厳しい修行を、果てしなく長いあいだ精進する道のことで、「難行道(なんぎょうどう)」と言います。 これを龍樹菩薩は、「陸地を果てしなく歩くような苦しい道」と例えられました。


龍樹菩薩がこの「十住毘婆沙論」を作成した動機は、「菩薩の修行ができる能力もなく、怠ける心のあるもの」を、この不退の位である「歓喜地」へ導くためです。

この「歓喜地」に導くためにこの書物が作られ、「歓喜地」という段階の重要性を詳しく説明するのですが、先程言った「難行」を「能力のない怠け者」が達成することができるでしょうか?

「能力のない怠け者」が「厳しい難行」を完遂することは当然不可能です。このようなものは難行を行ったところで、「歓喜地」に到達する前にダメになります。

「能力のない怠け者」というと、現実社会での「だらしがない人」と誤解されますが、ここでは「菩薩の修行を行う者」という前提です。この前提を踏まえた上で言えば、現代社会に生きる人はすべて「仏のさとりをえるには能力が足らず、そのような厳しい精進を絶え間なく修めることのできない怠け者」という解釈になります。

むしろ「自分は能力がある」「修行もできないことはない」と少しでも自惚れた気持ちがある方が問題です。


この「十住毘婆沙論」が「能力のない怠け者」のために説かれた書物であるのならば、龍樹菩薩がここで一番言いたかったことは何か、それは「易しい道」という選択肢があるよ、ということ以外に考えられません。

「易しい道」とは阿弥陀仏の名を称すること。つまり「南無阿弥陀佛」のお念仏です。

これを「易行道(いぎょうどう)」といいます。「十住毘婆沙論(易行品)」では、この易行によって、「歓喜地」どころか、お浄土へ往生までできると説かれるのです。またそのことを「海や川を船に乗って行くように楽しいこと」と例えられました。


親鸞聖人は「高僧和讃」に

  生死の苦海ほとりなし ひさしくしづめるわれらをば

  弥陀弘誓のふねのみぞ のせてかならずわたしける

とあらわされました。


龍樹菩薩は、どこまでも深い迷いの世界に生きる私たちに、お念仏によって阿弥陀さまのお浄土へ向かう道があるんだよ、ということを気づかせ、ともに、お浄土へ行きましょうと、おすすめ下さっているのです。

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